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パーリ伝 増一阿含経


諸行無常・諸法無我

「弟子達よ、仏がこの世に出ると出ないとにかかわらず、諸々は移り変わる(諸行無常)である。これは、いつも定まりきっている。仏はこれをさとり、これを知って、「諸行は無常である」と明らかに教えるのである。「移り変わるものは苦しみである」、「諸々の存在は無我である(諸法無我)」ということも仏が世に出ると出ないとにかかわらず、いつも定まっている。仏はこれをさとり、これを知り、これを教えるのである。」


貪瞋痴

世尊は給孤独長者(ぎっこどくちょうじゃ)に言われた。
「長者よ、心を守っていなければ、身・口・意(しんくい・・行い・言葉・心)の三業を守ることはできない。身・口・意の三業を守ることができなければ、三業とも欲のために汚される。三業が汚れているとその人の臨終も死後も幸福ではない。喩えば宮殿の屋根がよく葺かれていなければ、梁も垂木も壁も雨ざらしになり腐るようなものである。長者よ、もし心を守っていれば、身・口・意の三業が守られ、欲のために汚されず、その人の臨終も死後も幸福である。喩えば、宮殿の屋根がよく葺かれてあれば、梁も垂木も壁も雨に濡れず、腐らないようなものである。」


報恩・父母の恩

弟子達よ、私は悪人と善人との違いを説こう。悪人は恩を知り、感謝の心を持つことがないのである。この恩を知り感謝の心を持たないことが悪いのである。善人は恩を知り、感謝の心がある。この恩を知り感謝の心を持てることが善い事である。

弟子達よ、どのように努力しても二人の人にはその恩を報いつくすことができない。二人とは父と母である。たとえ、百年の寿命がある人が、百年の間、右の肩には母を乗せ、左の肩には父を乗せて歩いても、また香水で父母の身体をもみ摩り、洗い清め、按摩しても、父母のしもの始末をしても、その恩に報いるには足りない。父母を王者の位に昇らせるまでにつとめても、その恩に報いるには足りない。何故ならば、父と母はその子供に多くの資助を与え、養い育て、この世を子供に見せた人であるからである。
もし父母の不信を信仰に導き、誤った思い込みを捨てさせて、正しい信念に導き入れるならば、それは父母の恩に報いることとなる。


真実

世尊が霊鷲山にいらっしゃった時のこと、名高い遊行者達が集まる園に行かれた。そのとき遊行者達の間には、この世の真実とは何であるか、ということが議論されていた。世尊は言われた。
「遊行者達よ、私はこの世における四つの真実ということを自らさとって説いている。それは、第一に、すべての生きとし生けるものは無明から生まれるということ。また第二にすべて五欲(財欲、性欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲)の対象となるものは、無常であり、苦しみであり、変化(移り変わる)するものであるということ。また第三にすべての存在は、無常であり、苦しみであり、変化(移り変わる)するものであるということ。また第四に、我も我が所有ということもないということ。この四つはどれも真実であって虚妄(いつわりではない)。私はこの四つの真実を自らさとって説いている。」





パーリ伝 中阿含経・雑阿含経

世尊は言われた。
「この父母より生まれて食物によってたもたれる肉体は、無常であって壊れるもの、苦しみのもの、無我のもの、空なるものである。この道理をみて、身体に対する欲と執着とを離れねばならぬ。また、我々の感覚には苦と楽、不苦不楽の三種があるが、この三つは皆、縁によって生じたもので、無常にして滅びるもの、執着をすべきものではない。この教えによる私の弟子達は、苦と共に楽をも、また不苦不楽をも厭い、貪欲を離れて解脱し、何者とも争わずに生活するのである。」

舎利弗が言われた
「友よ、貪欲は悪である、瞋恚(いかり)も恨みも隠すことも悪である。また悩み、嫉(ねた)み、惜しみ、諂(へつら)い、誑(たぶら)かし、剛情、お喋り、我慢、慢心、怠惰もすべて悪である。友よ、これらの悪法を捨てるために中道がある。中道とは八正道のことである。これによって正しい智慧を生み、さとりを得るのである。」

「弟子達よ、永久に変わらず続くものを見たことがあるか。」

「世尊、それはありません。」

「弟子達よ、私も見たことがない。世に常住永存のものはない。我に執着すれば、憂い、悩み、苦しみの起こらないことはない。弟子達よ、我があれば我がものもあり、我がものがあれば我もあるはずである。しかし我も我がものも何処にも発見されるものではない。従って、この世界と自我とは永久に存在し、永遠に変わらないという見解は愚かなことである。」

「弟子達よ、身(からだ)は常住であるか無常であるか。」

「世尊、無常であります、」

「無常なものは苦しみであるか、幸福であるか。」

「世尊、苦しみであります。」

「無常にして苦しみ、移り変わる法(もの)に対して、『これは私のものである、私である。私自身である。』というのは適当なことであろうか。」

「世尊、それは適当ではありません。」

「弟子達よ、それは身(からだ)についてばかりではない。こころについても同様である。それゆえにいかなる身(からだ)でも、すべての身(からだ)は皆、『「私」のものではない、「私」ではない、「私」自身ではない。』と、正しく知らなければならない。こころについても同様である。弟子達よ、この教えの弟子はこのように見、このように聞いて、身(からだ)とこころを厭(いと)い、欲を離れて解脱する。そして、『解脱した』という智慧が生まれる。『生は尽きた、浄(きよ)らかな行(ぎょう)は成し遂げた、成すべきことは成し終わった、この生の終わった後に他の生はない』と知るのである。このようなものが障りを離れ、重荷を下ろし、束縛を離れた聖者といわれる。」

「弟子達よ、ある出家者は 根拠もなく私を非難する。『ゴータマは人々の破壊と断滅を教えるものである。』と、弟子達よ、私はそうはいわない。私は以前も今も、現世の苦しみとその苦しみの断滅とを教えているのである。たとえ他人は仏を非難し、罵(ののし)り、悪口しても、仏は焦らず、怒りを抱かない。またたとえ、他人が仏を尊び敬い供養しても、仏は喜ばず、楽しまず、心高ぶらない。また他人が仏を尊び、敬い、供養する時に、仏はこのように考える。『彼等が私にこの様なことをすることは、真理の法にかなった自然なことである』と。それゆえ、もし他人が汝等を非難し、罵り、悪口しても、汝等は、心を苛立たせ、怒りを抱いてはならない。また、他人の敬いを喜び、高ぶってはならない。それは真理の法にかなった自然なことであると思わねばならない。」

「弟子達よ、それゆえ汝等のものではないものは、それを捨てよ。それを捨てれば、汝等の永劫の幸福となるであろう。」

「弟子達よ、汝等のものでないものとは何であるか。身は汝等のものではない、その身を捨てよ。心も汝等のものではない、心を捨てよ。それを捨てれば汝等の永劫の利益となり幸福となるであろう。」

「弟子達よ、汝等はどのように考えるか。ある人が、ギータ林に来て、草や枝や木の葉を運んで焼くとする。汝等は、これを見て『この人は、我々の物を思いのままに焼いている』と思うか。」

「世尊そうではありません。何故ならば、それは我でも我がものでもないからであります。」

「そうであろう。弟子達よ、ちょうどそのように、汝等のものでない物は捨てよ。それを捨て去れば、汝等は永劫の幸福を得るであろう。」

【管理人訳】




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