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パーリ伝 本事経


「弟子達よ、例えば我が弟子であって私の衣の裾をとって後ろに従い、私の足跡を踏んでいても、欲深く心乱れているならば、彼は私から遠く、私も彼から遠い。何故なら、彼は法を見ておらず、法を見ない者は私を見ない者だからである。しかし私から百里離れていても、彼が欲を離れ、正しい心でいるならば、彼は私の側にいる者である。何故かといえば、彼は法を見、法を見ることによって私をみるものであるからである。」

ある日、また世尊は、祇園精舎の庭で弟子たちに言われた。
「弟子達よ。人々が業を作るのには三つの原因がある。それは貪欲(むさぼり)と瞋恚(いかり)と愚痴(おろか)である。人々はこの三つの原因から業を作り、業の熟した処に生まれ、業の報いをこの世や後の世に受ける。ちょうど種を地に蒔き、雨がよい時期に降り注げば、芽を吹いて生長するように、人々はこの三つの原因から業を作り、その業が熟して報いを受ける。
弟子達よ、涅槃に入る修行に三つの原因がある。それは貪欲(むさぼり)のないこと、瞋恚(いかり)のないこと、愚痴(おろか)でないことである。この三つによって修行すれば、未来に迷いの生を起こさないで、涅槃に入りちょうど根こそぎにされた草や芽をつまれた多羅樹のように、再び迷いの生を引き起こさない。

弟子達よ、世には三つの感覚がある。苦の感覚と、楽の感覚と、不苦不楽の感覚とである。楽の感覚は苦しみと見なければならない。苦の感覚は毒矢と見なければならない。不苦不楽の感覚は無常と見なければならない。このように見て、正しく見、愛の渇きを断ち、縛(いまし)めを解き、正しい意(こころ)の理解によって、苦しみの終わりをなす聖者となるのである。
弟子達よ、愛の渇きには三種あり、欲愛と有愛(存在を好むこと)と非有愛(存在を嫌うこと)とである。

愛のくさびに縛られて、有と非有とを喜ぶ人は、魔に囚われて安らかではない、老いと死と輪廻の道は哀れである。
欲愛を離れ、心の汚れを尽くして、この世で彼岸に至る。

弟子達よ、三つの法(みち)を具える時に、悪魔の国をいでて太陽のように輝くのである。三つの法(みち)とは聖者の戒と定と慧とである。

弟子達よ、三つの聖者の法(みち)がある。身(からだ)と意(こころ)と語(ことば)が静かに修まっていることである。
弟子達よ、誰でも、貪欲(むさぼり)と瞋恚(いかり)と愚痴(おろかさ)とを捨てなければ、悪魔の罠にかかり、悪魔の命令のままに動かなければならない。ただ、この貪、瞋、痴を棄てる時に、悪魔の国を離れる。」


【管理人訳】




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