仏教悩み相談室
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『諸々の悪は、作(な)すことなく、衆(もろもろ)の善は奉行(おこな)いて、自らその心を清くせよ。これ諸仏の教えなり。』(涅槃経) 『怨恨(うらむこと)なき教えを仏教となし、訴訟(あらそうこと)なき教えを仏教となし、誹謗(そしること)なき教えを仏教と為す。』(寶蔵経) 『自他を執せざる法、これを仏教と名づけ。謗ることなき法、これを仏教と名づけ、善く教え、善く導きて、宜しきに随う法。これを仏教と名づく。』(寶筐(ほうきょう)経)
お釈迦様は悟りを開かれて、『すべてのものは縁に因って生じ、縁に因って滅びる』と言われました。花でも種をまかなければ芽はでません。芽が育つ為には水と空気が必要です。この水と空気が縁です。どのような因業をもって生まれてきても、お釈迦様の教えを聞き善根を積むという縁により、結果が良くなってきます。 因果経というお経に 『前世の因を知らんと欲せば、すなわち今世に受くるところのものこれなり。後世の果を知らんと欲せば、すなわち今世に為すところのものこれなり。』とありますが、 今世でお釈迦様の教えにであい信仰をもつことによって、感謝の心が湧いてきて法悦歓喜の生活となり、身・口 ・意(しん・く・い)、身の行い、言葉、心遣いで善業を積むことができ、平安で幸福な境界を得られることになります。
私達の心には十の世界があるといわれていますが、仏様の教えを聞くまでは六道と言って六つの世界を行ったり来たりしています。
人間は通常、人界に住しますので、怒りや貪欲などを出さないように良識があり平穏な心でいるのが本当ですが、仏様の教えを聞かなければ縁によって人を憎んだり怨みをもったり愚痴をいったりと、悪い心を遣ってしまいます。 天上界は神々の世界ですが、天上界も六道の中に入っているのは、何か嬉しいことがあり、天にも昇る思いをするかと思えば、次の瞬間に自分に不利なことが生じると、又縁によって怒りを出したりと、地獄界と天界を行ったり来たりするからです。 貪欲・瞋り・愚痴の三毒が、地獄・餓鬼・畜生の境界に相当しますが、お釈迦様はこれが苦しみのもとであると説かれました。 『多欲の人は利をもとむること多きが故に、苦悩もまた多し。少欲の人は求むることなく、欲するところなければ、すなわちこの患いなし。直ちに少欲すら尚まさに修習べし。いかに況や、少欲のよく諸々の功徳を生ずるをや、少欲の人はすなわち諂曲(へつら)って人の意を求むることなく、また諸根のために牽(ひ)かれず、少欲を行う者は、心すなわち坦然(たんねん)として、憂い畏れるところなく、ことに触れて餘りあり。常に足らざることなし。少欲なる者にはすなわち涅槃あり。』(遺教経) 『多欲は苦なり、生死の疲労は貪欲よりおこる。少欲にして無為なれば身心自在なりと覚知せよ。』(八大人覚経) 『もし人、心足ることなければ、ただ多く求めて罪悪を増長す。菩薩はしからず、常に知足を念じ、貧に安んじ道を守り、ただ慧のみ是れ業なりと覚知す。』(八大人覚経) 『貪人多く集め得て、足れるおもいを生ぜず、無明の闇、心を顛倒して、常に侵して他を損せんことを念ず、現在は怨憎多く、身を捨てては悪道に堕つ、この故に智者はまさに知足を念ずべし。』(尼乾子経) 『瞋りをよく自ら制すること、走れる車を止めるが如くす、これを善きこととなす。迷いをすてて悟りにはいる。』(法句経) 『若し瞋恚をなくせば安穏に眠ることを得ん。瞋恚をなくせば人をして歓喜を得せしめん。瞋恚は毒の本なり。これをなくす者は我が褒めるところなり。』(雑阿含経) 『五欲に貪着して自ら放逸なる衆生は、為に不浄の境界を示現す。』(華厳経) 私達は身・口・意(しん・く・い)の三業で善業も悪業も積むことになりますが、悪業には身で三、口で四、意で三の十悪を説かれています。 十悪とは 身には三つ・・・『殺生』『偸盗(ちゅうとう)』『邪淫』 口には四つ・・・『悪口(あっく)』『妄語(嘘)』『両舌(二枚舌)』『綺語』 意には三つ・・・『貪欲(とんよく)』『瞋恚(しんに)』『愚痴』 しかし、お釈迦様は、衆生がこのような悪業を積んでしまうのも無明によるとされ、 釈尊の教えによって小さな我を捨て、本来の自己が「仏」であるこに気づくと、この世は仏性で満ち満ちていることがわかります。自然と周りの方々にも仏様に接するように感謝して仏性を拝みあって合掌礼拝していくようになれば、この世がそのまま浄土となるのです(娑婆即寂光土)。
※四苦八苦―生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦(求めるものが得られない苦しみ) ・五陰盛苦(心身の働きが盛んであるために色々な欲が出て苦しいこと) ※六波羅蜜―菩薩の修行(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)
お釈迦様は「さとり」へ至るための聖なる八つの実践道を説かれました。
過去・現在・未来の三世に輪廻する生の連続を説くもので、無明・行は過去に於いて為す現在生存の因。 識より受までは果としての現在の生で、母胎に託して意識生活をなす第一歩である識より身心の和合する名識、 感覚器官である六入をそなえ、出生して快楽や苦しみを感受する過程を示して、次の愛・取・有は未来の生・老死を 生ずる因となり、終に生・老死の果となります。 「十二因縁とは、煩悩と業と苦との三法が互いに因縁になることをいう。初めの無明と第八の愛と第九の取とはこれ煩悩なり。第二の行と第十の有とはこれ業なり。また、識、名色、六處、触、受、および生、老死の七つはこれ苦なり。煩悩より業を生じ、業より苦を生じ、苦より煩悩を生じる。この煩悩と業と苦の三種は、互いに次々生じて、とどまらないこと輪の転ずるが如し。」(十二因縁論) 上記の四聖諦の中の、苦諦・集諦の二諦の循環状態を説くのが、十二因縁の順観といい、 これを絶つ為の道諦・滅諦の二諦に照らして、『無明なければ行なし、行なければ識なし……生なければ老死なし』、つまり煩悩なければ悪業も積まず、苦しみもなくなるということです。このように観ずるのを逆観といいます。
六度ともいい、「度」の字は渡の字と同じ意味で、わたす、わたるということです。下記の六つの修行は、人々を迷いのこの岸より、悟りの彼の岸に渡す修行です。
布施行は「無所得」で何かの報酬を求めてはいけない。 忍辱(にんにく)行は、ものや名誉に囚われず「空」に住して実践する。
仏様の徳の一つで、大きな四つの心
「五根(こん)」というのは私達が信心を定める根本になるもの。 「五力(ごりき)」というのは『五根』により間違った思想を打ち破る『力』が生ずること。 「五根(こん)」
覚りを得るための七つの条件
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