第2章 人の心とありのままの姿
第1節 変わりゆくものには実体がない
1.身も心も、因縁によってできているものであるから、 この身には実体はない。この身は因縁の集まりであり、だから、無常なものである。
もしも、この身に実体があるならば、わが身は、かくあれ、 かくあることなかれ、と思って、その思いのままになし得るはずである。
王はその国において、罰すべきを罰し、賞すべきを賞し、 自分の思うとおりにすることができる。それなのに、願わないのに病み、望まないのに老い、一つとしてわが身については思うようになるものはない。
それと同じく、この心にもまた実体はない。心もまた因縁の集まりであり、常にうつり変わるものである。
もしも、心に実体があるならば、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、そのとおりにできるはずであるのに、心は欲しないのに悪を思い、願わないのに善から遠ざかり、ーつとして自分の思うようにはならない。
2.この身は永遠に変わらないものなのか、それとも無常であるのかと問うならば、だれも無常であると答えるに違いない。
無常なものは苦しみであるのか、楽しみであるのかと問うならば、生まれた者はだれでもやがて老い、病み、死ぬと気づいたとき、だれでも、苦しみであると答えるに違いない。
このように無常であってうつり変わり、苦しみであるものを、実体である、わがものである、と思うのは間違っている。
心もまた、そのように、無常であり、苦しみであり、実体ではない。
だから、この自分を組み立てている身と心や、それをとりまくものは、我[が]とかわがものとかという観念を離れたものである。
智慧[ちえ]のない心が、我である、わがものであると執着するにすぎない。
身もそれをとりまくものも、縁によって生じたものであるから、変わりに変わって、しばらくもとどまることがない。
流れる水のように、また燈火[ともしび]のようにうつり変わっている。 また、心の騒ぎ動くこと猿[さる]のように、しばらくの間も、静かにとどまるととがない。
智慧あるものは、このように見、このように聞いて、身と心とに対する執着を去らなければならない。心身ともに執着を離れたとき、さとりが得られる。
3.この世において、どんな人にもなしとげられないことが五つある。一つには、老いゆく身でありながら、老いないということ。二つには、病む身でありながら、病まないということ。三つには、死すべき身でありながら、死なないということ。四つには、滅ぶべきものでありながら、滅びないということ。五つには、尽きるべきものでありながら、尽きないということである。
世の常の人びとは、この避け難いことにつき当たり、いたずらに苦しみ悩むのであるが、仏の教えを受けた人は、避け難いことを避け難いと知るから、このような愚かな悩みをいだくことはない。
また、この世に四つの真実がある。第一に、すべて生きとし生けるものはみな無明[むみょう]から生まれること。第二に、すべて欲望の対象となるものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第三に、すべて存在するものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第四に、我[が]も、わがものもないということである。
すべてのものは、みな無常であって、うつり変わるものであること、どのようなものにも我がないということは、仏[ほとけ]がこの世に出現するとしないとにかかわらず、いつも定まっているまことの道理である。仏はこれを知り、このことをさとって、人びとを教え導く。
|