第2節 善い行い
1.道を求めるものは、常に身と口と意[こころ]の三つの行いを清めることを心がけなければならない。身の行いを清めるとは、生きるものを殺さず、盗みをせず、よこしまな愛欲を犯さないことである。口の行いを清めるとは、偽りを言わず、悪口を言わず、二枚舌を使わず、むだ口をたたかないことである。意の行いを清めるとは、貪[むさぼ]らず、瞋[いか]らず、よこしまな見方をしないことである。
心が濁[にご]れば行いが汚れ、行いが汚れると、苦しみを避けることができない。だから、心を清め、行いを慎むことが道のかなめである。
2.昔、ある金持ちの女主人がいた。親切で、しとやかで、謙遜[けんそん]であったため、まことに評判のよい人であった。その家にひとりの使用人がいて、これも利口でよく働く人であった。
あるとき、その使用人がこう考えた。
「うちの主人は、まことに評判のよい人であるが、腹からそういう人なのか、または、よい環境がそうさせているのか、一つ試してみよう。」
そこで、使用人は、次の日、なかなか起きず、昼ごろにようやく顔を見せた。女主人はきげんを悪くして、「なぜこんなに遅いのか。」、ととがめた。
「一日や二日遅くても、そうぶりぶり怒るものではありません。」とことばを返すと、女主人は怒った。
使用人はさらに次の日も遅く起きた。女主人は怒り、棒で打った。このことが知れわたり、女主人はそれまでのよい評判を失った。
3.だれでもこの女主人と同じである。環境がすべて心にかなうと、親切で謙遜[けんそん]で、静かであることができる。しかし、環境が心に逆らってきても、なお、そのようにしていられるかどうかが問題なのである。
自分にとって面白くないことばが耳に入ってくるとき、相手が明らかに自分に敵意を見せて追ってくるとき、衣食住が容易に得られないとき、このようなときにも、なお静かな心と善い行いとを持ち続けることができるであろうか。
だから、環境がすべて心にかなうときだけ、静かな心を持ちよい行いをしても、それはまことによい人とはいえない。 仏の教えを喜び、教えに身も心も練り上げた人こそ、静かにして、謙遜な、よい人といえるのである。
4.すべてことばには、時にかなったことばとかなわないことば、事実にかなったことばとかなわないことば、柔らかなことばと粗[あら]いことば、有益なことばと有害なことば、慈しみあることばと憎しみのあることば、この五対[つい]がある。
この五対のいずれによって話しかけられても、
「わたしの心は変わらない。粗いことばはわたしの口から漏れない。同情と哀れみとによって慈しみの思いを心にたくわえ、怒りや憎しみの心を起こさないように。」と努めなければならない。
例えばここに人がおり、鋤[すき]と鍬[くわ]を持って、この大地の土をなくそうと、土を掘ってはまき散らし、土よなくなれと言っ たとしても、土をなくすことはできない。このようにすべてのことばをなくしてしまうことはのぞみ得ない。
だから、どんなことばで語られても、心を鍛えて慈しみの心をもって満たし、心の変わらないようにしておかなければならない。
また、絵の具によって、空に絵を描こうとしても、物の姿を現わすことはできないように、また、枯草のたいまつによって、大きな河の水を乾かそうとしてもできないように、また、よくなめした柔らかな皮を摩擦して、ざらざらした音を立てようとしてもできないように、どんなことばで話しかけられても、決して心の変わらないように、心を養わなければならない。
人は、心を大地のように広く、大空のように限りなく、大河のように深く、なめした皮のように柔らかに養わなければならない。
たとえ、かたきに捕らえられて、苦しめられるようなことがあっても、そのために心を暗くするのは、真に仏の教えを守った者とはいえない。どんな場合に当たっても、
「わたしの心は動かない。憎しみ怒ることばは、わたしの口を漏れない。同情と哀れみのある慈しみの心をもって、その人を包むように。」と学ばなければならない。
5.ある人が、「夜は煙って、昼は燃える蟻[あり]塚。」を見つけた。 ある賢者にそのことを語ると、「では、剣をとって深く掘り進め。」と命ぜられ、言われるままに、その蟻塚を掘ってみた。
はじめにかんぬきが出、次は水泡、次には刺又[さすまた]、それから箱、亀[かめ]、と殺用の刀、一片の肉が次々と出、最後に龍[りゅう]が出た。
賢者にそのことを語ると、「それらのものをみな捨てよ。 ただ龍のみをそのままにしておけ。龍を妨げるな。」と教えた。
これはたとえである。ここに「蟻塚」というのはの体のことである。「夜は煙って」というのは、昼間したことを夜になっていろいろ考え、喜んだり、悔やんだりすることをいう。「昼は燃える」というのは、夜考えたとを、昼になってから体や口で実行することをいう。
「ある人」というのは道を求める人のこと、「賢者」とは 仏のことである。「剣」とは清らかな智慧のこと、「深く掘り進む」とは努力のことである。
「かんぬき」とは無明[むみょう]のこと、「水泡」とは怒りと悩み、「刺又[さすまた]」とはためらいと不安、「箱」とは貪[むさぼ]り・瞋[いか]り・怠り・浮わつき・悔い・惑いのこと、「亀」とは身と心のこと、「と殺用の刀」とは五欲のこと、「一片の肉」とは楽しみを貪[むさぼ]り求める欲のことである。これらは、いずれもこの身の毒となるものであるから、「みな捨てよ」というのである。
最後の「龍[りゅう]」とは、煩悩[ぼんのう]の尽きた心のことである。わが身の足下を掘り進んでゆけば、ついにはこの龍[りゅう]を見ることになる。
掘り進んでこの龍を見いだすことを、「龍のみをそのままにしておけ、龍を妨げるな。」というのである。
6.釈尊の弟子ピンドーラは、さとりを得て後、故郷の恩に報いるために、コーサンビーの町に帰り、努力して仏の種をまく田地[でんち]の用意をしようとした。
コーサンビーの郊外に、小公園があり、椰子[やし]の並木は果てもなく続き、カンジスの洋洋たる河波[かわなみ]は、涼しい風を絶え間なく送っていた。
夏のある日、昼の暑い日盛りを避けて、ピンドーラは、並木の木陰の涼しいところで坐禅[ざぜん]していた。ちょうどこの日、城主のウダヤナ王も、妃[きさき]たちを連れて公園に入り、管弦の遊びに疲れて、涼しい木陰にしばしの眠りにおちいった。
妃たちは、王の眠っている間、あちらこちらとさまよい歩き、ふと、木陰に端坐[たんざ]するピンドーラを見た。彼女らはその姿に心うたれ、道を求める心を起こし、説法することを求めた。そして、彼の教えに耳を傾けた。
目を覚ました王は、妃たちのいないのに不審をいだき、後を追って、木陰で、妃たちにとりまかれているひとりの出家を見た。淫楽[いんらく]に荒[すさ]んだ王は、前後の見境もなく、心中にむらむらと嫉妬[しっと]の炎を燃やし、
「わが女たちを近づけて雑談にふけるとはふらちな奴[やつ]だ。」
と悪口を浴びせた。ピンドーラは眼を閉じ、黙然として、一語も発しない。
怒り狂った王は、剣を抜いて、ピンドーラの頭につきつけたが、彼はひとことも語らず、岩のように動かない。
いよいよ怒った王は、蟻[あり]塚をこわして、無数の赤蟻を彼の体のまわりにまき散らしたが、それでもピンドーラは、端然と坐ったままそれに耐えていた。
ここに至って、王ははじめて自分の狂暴を恥じ、その罪をわびて許しを請うた。これから仏の教えがこの王家に入り、
その国に広まるいとぐちが開けた。
7.その後、幾日か過ぎて、ウダヤナ王はピンドーラをその住む森に訪ね、その不審をただした。
「大徳よ、仏の弟子たちは、若い身でありながら、どうして欲におぼれず、清らかにその身を保つことができるのであろうか。」
「大王よ、仏はわたしたちに向かって、婦人に対する考えを教えられた。年上の婦人を母と見よ。中ほどの婦人を妹と見よ。若い婦人を娘と見よと。この教えによって、弟子たちは若い身でありながら、欲におぼれず、その身を清らかに保っている。」
「大徳よ、しかし、人は、母ほどの人にも、妹ほどの人にも、娘ほどの人にもみだらな心を起こすものである。仏の弟子たちはどのようにして欲を抑えることができるのであろうか。」
「大王よ、世尊は、人の体がいろいろの汚れ、血・うみ・汗・脂など、さまざまの汚れに満ちていることを観[み]よと教えられた。このように見ることによって、われわれ若い者でも、心を清らかに保つことができるのである。」
「大徳よ、体を鍛え、心を練り、智慧[ちえ]をみがいた仏弟子たちには容易であるかも知れない。しかし、いかに仏の弟子でも、未熟の人には、容易なことではないであろう。汚れたものを見ようとしても、いつしか清らかな姿に心ひかれ、醜さを見ようとしても、いつしか美しい形に魅せられてゆく。仏弟子が美しい行いを保つには、もっと他に理由があるのではあるまいか。」
「大王よ、仏は五官の戸口を守れと教えられる。目によって色・形を見、耳によって声を聞き、鼻によって香りをかぎ、舌によって味を味わい、体によって物に触れるとき、そのよい姿に心を奪われず、またよくない姿に心をいらだたせず、よく五官の戸口を守れと教えられる。この教えによって、若い者でも、心身を清らかに保つことができるのである。」
「大徳よ、仏の仰せは、まことにすばらしい。わたしの経験によってもそのとおりである。五官の戸締りをしないで、ものに向かえば、すぐに卑しい心にとらわれる。五官の戸口を守ることは、わたしどもの行いを清らかにするうえに、まことに大切なことである。」
8.人が心に思うところを動作に表わすとき、常にそこには反作用が起こる。人はののしられると、言い返したり、仕返ししたくなるものである。人はこの反作用に用心しなくてはならない。それは風に向かって唾[つばき]するようなものである。 それは他人を傷つけず、かえって自分を傷つける。それは風に向かつてちりを掃くようなものである。それはちりを除くことにならず、自分を汚すことになる。仕返しの心には常に災いがつきまとうものである。
9.せまい心を捨てて、広く他に施すことは、まことによいことである。それとともに、志を守り、道を敬うことは、さらによいことである。
人は利己的な心を捨てて、他人を助ける努力をすべきである。他人が施すのを見れば、その人はさらに別の人を幸せにし、幸福はそこから生まれる。
一つのたいまつから何千人の人が火を取っても、そのたいまつはもとのとおりであるように、幸福はいくら分け与えても、減るということがない。
道を修める者は、その一歩一歩を慎まなければならない。 志がどんなに高くても、それは一歩一歩到達されなければならない。道は、その日その日の生活の中にあることを忘れてはならない。
10.この世の中に、さとりへの道を始めるに当たって成し難いことが二十ある。
1.貧しくて、施すことは難く、
2.慢心にして道を学ぶことは難く、
3.命を捨てて道を求めることは難く、
4.仏の在世に生を受けることは難く、
5.仏の教えを聞くことは難く、
6.色欲を耐え忍び、諸欲を離れることは難く、
7.よいものを見て求めないことは難く、
8.権勢を持ちながら、勢いをもって人に臨まないことは難く、
9.辱[はずか]しめられて怒らないことは難く、
10.事が起きても無心であることは難く、
11.広く学び深く究めることは難く、
12.初心の人を軽んじないことは難く、
13.慢心を除くことは難く、
14.よい友を得ることは難く、
15.道を学んでさとりに入ることは難く、
16.外界の環境に動かされないことは難く、
17.相手の能力を知って、教えを説くことは難く、
18.心をいつも平らかに保つことは難く、
19.是非をあげつらわないことは難く、
20.よい手段を学び知ることは難い。
11.悪人と善人の特質はそれぞれ違っている。悪人の特質は、罪を知らず、それをやめようとせず、罪を知らされるのをいやがる。善人の特質は、善悪を知り、悪であることを知ればすぐやめ、悪を知らせてくれる人に感謝する。
このように、善人と悪人とは違っている。
愚かな人とは自分に示された他人の親切に感謝できない人である。
一方賢い人とは常に感謝の気持ちを持ち、直接自分に親切にしてくれた人だけではなく、すべての人に対して思いやりを持つことによって、感謝の気持ちを表わそうとする人である。
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