首楞厳経のページ
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首楞厳経(大仏頂首楞厳経)



阿難は合掌して改めて世尊にお尋ね申し上げた。
「心は身の内にあるのでもなく外にあるのでもないとしますと、いったい心の本体はどこにあるのでしょうか。願わくば世尊、大慈悲の御心で、この理を明かしてください。」

世尊は言われた。
「阿難よ、すべての人々は始まりもない遠い昔より、業の絆に縛られているのであるが、それは二つの根本を知らないからである。一つは生死の根本が迷いの心であることを知らないで、これを自分の本性と思っていること。二つは覚りの本体であるところの清浄な本心が、自分の上に備わっていることを知らないことである。」

「世尊、それでは私の本当の心は何でしょうか。」

世尊は言われた。
「阿難よ、分別の心は実のない虚妄のものである。因縁によって起こり、因縁によって移り変わる実体のない空なるものである。それを実のある心と信じたところに、汝の永劫の迷いが起こったのである。」

また世尊は弟子達に言われた。
「弟子達よ、すべての人々はみな客塵煩悩のために、常にその清浄な本心を汚されて、誤った考えに堕ちこんでいる。外の因縁にひかされて起こる煩悩は、常に動き動いて止むときがない。それは客のようにしばしの間宿る心であり、塵のように外からくっついて内の本心を汚すものである。けれども覚りの本体である浄い心は、そのために動かされることもなければ汚されることもない。煩悩の塵に埋まってもその性は失われないのである。
汝等心して、動く客人の煩悩を自分の本性と思ってはならない。動かない覚りの本心に目覚めて、真の自分を知らなければならない。もし動く煩悩に心捉えられれば、いつまでも転倒(さかさま)の見方に追われて、迷いの巷にさまよわなければならないであろう。」

その時、波斯匿王(はしのくおう)が申し上げた。
「世尊、この体が死んで滅ぶことは淋しいことですが、いま世尊は、滅ぶことのない覚りの本心というものをお説きになったので、私はまことに明るい気持ちになりました。」

王はこの世尊の御教を聞いて、たとえ朽ち行く身は捨てても、そこに滅びないものがあって、永遠の生を得ることができると知って皆と共に類いない喜びに浸った。

この時、阿難が立ち上がって、世尊にお尋ね申し上げた。
「世尊、もし私達の見方に生ずることも滅びることもないとしますと、私達は本心の性を失って、転倒(さかさま)の見方によって動いているとはいえないのではありませんか。」

世尊が言われた。
「物も心も、すべてのものは皆因縁によって起こるものである。そしてその因縁は、もとは心から現れたものである。これは今までもしばしば説いたことである。そうすると汝等の身も心も、本来微妙(みみょう)な明らかな心があって、その中から表れたものであるということはわかるであろう。しかし汝等は、その微妙(みみょう)な本心を忘れていて、本来悟りの性を持った心の中で迷い、その迷いの妄想(もうぞう)を本性であると思い込み、それがこの肉身の中にあるように信じている。それゆえ、山河、大地、虚空の果てに至るまでも、みな微妙(みみょう)な本心の中から現れたものであるということに気がついていない。まことに小さな泡を捉えて大海を究めたように思っている愚かさではないか。」

阿難が申し上げた。
「世尊のお言葉によって、心の本(もと)である常住の心性に就いて悟ることはできましたが、しかし、このお言葉を悟ることのできたのも、やはり分別の心によったのではないでしょうか。」

世尊が言われた。
「阿難よ、もし分別の心をもって法を聞いたというのならば、その聞き入れた法もまた分別の法であって、法そのものの性にふれたものとはいえない。
阿難よ、手によって月を指差し示されたときに、その指の先だけに注目して月を見たと思うならば、その人は、月を見ないだけでなく、また指をも正しく認識しなかったことになる。更に、光のない指を光のある月と誤った点からいえば、その人は、明るさと暗さの性をも知らないことになる。
まことに分別によっては、ものの真の性を知ることはできない。阿難よ、いま汝は、分別の心をもって私の言葉を悟ったといったが、もし分別が真に汝の心であるならば、その分別の心は、いつまでも変わらずに存在するはずであるが、しかし分別は縁にふれて起こるもので、縁が尽きれば変わりもし、滅(な)くなりもする。まことに縁を離れては分別の性はない。しかし、その縁の来たり、また去ることには関わりなく、永遠に動かず滅びない心性がある。それこそ汝の心の本体であり、主である。
阿難よ、一つの喩えを説こう。宿屋には客人と亭主とがある。客人は分別の心であって、縁あれば来たって宿るが、縁が尽きると去って姿を消すであろう。しかし、客人の去来生滅に関係なく、亭主は常に住している。客が去り居なくなったからといって、それで宿屋がなくなったとはいえない。縁につれて分別の心が消え去ったからといって、自分がなくなったとはいえないのである。
阿難よ、外縁によって移り変わる分別の心を性とするな。外縁の心には関係なく、常に移らず変わらない心を主とせよ。」

阿難が申し上げた。
「世尊、外縁に動かされない本性の心は、どうして消え去ることがないのでしょう。」

世尊が言われた。
「阿難、あきらかに聞くがよい。いまこの講堂は、日が出ているので明るいが、もし日が没すれば暗くなる。この場合、明るさは日中の終わりとともに過ぎ去り、暗さは夜が過ぎ去るとともに終わる。けれども、ものを明らかに見究める力はどこにも過ぎ去ることはない。
明るさが来ても暗さを知る力がなくなったのでない。暗さが去っても、それは明るさを見る力が起こったためでない。明暗の去来に関係はなく、明暗を見る力は常に住(とどま)っている。明るしと見るも一時の心、暗しと見るも一時の心、それは心の真性ではない。明と暗とに捉われない常住の心、それが汝の真心(本心)である。そうすると心の心性は明に侵されず、暗に汚されず、外の因縁にひかれて、去来する善悪や好憎などの煩悩の中に包まれながら、しかも染まることなく汚れることなく、本来微妙(みみょう)清浄にして消えることのないものであると知らなければならない。
阿難よ、円い器に水を盛れば円くなり、四角い器に盛れば四角になる。しかし本来水に円さ四角さの形があるのでない。ちょうどそのように、すべての人々は始めなき昔から、盛られた水に人生を見て、あるいは大小を考えあるいは四角や円を考え、あるいは善悪を考え、あるいは好憎を考えて、その考えのために使われて外物のみを追って苦しんでいる。しかしそれは、器という外の縁に縛られて、その縛られた自己を己れの心性のように思うために起こった妄想である。
ゆえに縛られた見方を縛る外縁に還(かえ)して、縛られない自分の真心に立ち帰るならば、その人は仏と同じものになって身も心も完全に明らかとなり、何ものにも障(さ)えられることなく、この身このままにして、十方の法界をも受け入れることができるのである。
阿難よ、いま仏を生む如来蔵の真心は、本来清浄にして法界に遍く満ちている。」

その時、富楼那(ふるな)が、座を立って、合掌して世尊に申し上げた。
「世尊、もしこの本来のさとりの本心と、仏の心とはぴたりと一致して減ることも増すこともないとしますと、仏の心から諸々の差別のある世界がどうして生まれることになるのでしょう。」

世尊が言われた。
「富楼那(ふるな)よ、かの大空の相(すがた)は定まったものではない。明でもなく暗でもなく、動でもなく、静でもない。しかし、日が照れば明の相(すがた)を顕し、雲が覆えば暗の相(すがた)を呈する。
また風吹けば動となり、風が止むと静となる。すなわち定まった相(すがた)がないから、縁に因っていかなる相(すがた)でも顕すのである。そのように、覚りの本心もまた、一定の相(すがた)を持っていないから、機に応じてどのようにでも顕れるのである。如来蔵といわれる覚りの本心は空でもなければ、地水火風でもなく、色声香味触法でもない。
また無明の顕れた世界でもなければ、その滅した境地でもない。その何れでもないので、人がもし地水火風の形あるものに執着して道を求めれば、そこに地水火風によって成る形として顕れることができるし、またその形あるものが因縁から成って自性のない空のものであると見る人があるならば、如来蔵はその空の中に顕れることができるであろう。
このようにして人々の機に応じて、道と非道、物と心、有と空の何れになりとも自由に顕れ、少しもさえぎられるところがない。しかも人々はちょうど水に映った月の影が、東に行く人には東に随って移り、西に行く人には西に向かってついて来るように思われるように、各々自分の求める所に、妙覚の如来蔵があるものと信じているのである。
富楼那(ふるな)よ、人々は、本来備わる妙覚に背いて、煩悩の塵にとらわれて、ものの相(すがた)に心を縛られ、この自由を持たないで苦しんでいる。
けれども仏は、法界も円かに満ちて何物にもさえぎられることのないこの妙覚に一致しているから、一を無量に、無量を一に、小を大に大を小に、よく現しよく一致して少しもさえぎられることがなく、道場に坐しながらそのままにして身を十方に遍くし、また十方の量りない世界をもこの一身の中に含め、あるいは、一すじの毛端にも宝玉のように尊い法の世界を示し、微塵の小さき中にも転迷開悟の大法輪を示すことができるのである。それであるから、凡夫の眼には、仏は実に差別の世界において差別の境界(きょうがい)を生むかのようにも見えるのである。」

富楼那(ふるな)が申し上げた。
「世尊、人々に本来覚りの妙心が備わっているとしますと、どうして虚妄(いつわり)を生んでその妙心の光を隠し、生死の巷に溺れることになるのでありましょうか。」

世尊が言われた。
「富楼那(ふるな)よ、価の尊い如意宝珠を持ちながら、自らそれを知らないで、諸方に食を乞うて生きる愚かなもののように、本覚の妙心を知らないで、人にさとりを求めることは愚かしい。もし彼の愚かな者が、知者からその宝のことを教えられれば、急に富が得られるように、仏に教えられて自らに本覚の妙心のあることに気がつかなければならない。」

この世尊のお示しによって、人々はその疑いを除いて、円かな智慧を満たすことができた。


この時、阿難が世尊に問うた。
「世尊、私はいま、仏となる道について明らかにさとることができ、道を修める上に少しの疑いもなくなりました。ただ、未来の人々は、仏の御世から遠くなるので、限りなく邪(よこし)まの師から迷わされることでありましょう。この時どのようにしたならば、心をおさめて魔に乱されず、勇ましく道に進むことができるでありましょうか。」

世尊が言われた。
「阿難よ、汝の問いは末の世の人々を幸いすること限りなし。あきらかに聞けよ。私はかつて、戒行と禅定と智慧の三学について説いたことがある。
すなわち心をおさめるのが戒行で、戒行によって禅定を生み、禅定によって智慧を起こすのである。
どうして心をおさめるかといえば、第一に貪る心を除かなければならない。もしこの心を除けば、生死の迷いが続くことがない。
また禅定を修めるのは、煩悩から脱れ出るためであるが、この貪る心を除かないことには、煩悩から脱れることはできない。
もしどれほどに禅定を積み智慧を研いたとしても、貪りの心を断たないことには、必ずや魔の道に堕ちて、多くの人を惑わすに至るであろう。自らさとらないでいてさとったように言い、人々の善智識の如く振舞って愛着(あいじゃく)の奈落に導くなどはみなこれである。
ゆえに禅定を修めるに就いても、まず貪りの心を断つようにと教えることが要である。諸々の仏の教えというも、実にこのことを第一とする。
阿難よ、貪りを断たないで禅定を修めるものは、ちょうど砂や石を蒸してご飯にしようとするようなものである。百千劫に蒸してもただ熱砂しかえられないように、百千劫かけて三悪道をめぐるより外はない。
また、阿難よ、殺す心を離れ盗む心を除かなければ、ついに煩悩の塵を出ることはできない。たとえいかように禅定を修め智慧を研いても、殺す心を離れねば鬼神の道に堕ち、盗む心を除かなければ悪霊の道に堕ちるであろう。
阿難よ、さらにこれらの殺し、盗み、貪りの心を離れても、妄語をいうならば仏の種を失うに至るであろう。
すなわち未だ得ない境地を得たと言い、さとらないでいてさとったと言い、自ら世に最も優れた者であるかのように言いふらして、世の供養を貪る者などは、永く善根を潰して正しい知見に戻ることのできない者である。ちょうど糞を刻んで栴檀(せんだん・・香木)に似せ、栴檀の香気を求めようとするようなものである。だから仏の弟子たる者は、つねにその心を直ぐな糸のようにしているならば、まことの禅定に入ることができ、永く魔の業から脱れて菩薩の智慧を遂げるようになるだろう。」

【管理人訳】




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