維摩居士が病に臥した時、世尊が維摩を訪ねるように言われたので文殊師利菩薩は訪れた。
文殊 「貴方の病は心が病むのか、身体が病むのか。」
維摩 「私は身体を離れているから身体を病まず、心は幻のようなものと知るから心も病まぬ、ただ、人々が病むために私も病むのである。」
文殊 「菩薩は病める人をどのように慰めるか。」
維摩 「身体は無常であると説け、しかし身体を厭(いと)えと説いてはならない。身体は苦しみであると説け、しかし、涅槃に留まるように説いてはならない。身体には我がないと説け、しかし、人々を捨てるのではない。よくこれを教え導くことを忘れてはならない。過去につくった罪を悔いさせることは大切であるが、過ぎ去ったことによって苦しめてはならない。私は、病をもって他人の病を憐れむ。そして、病める人に対しては、過去世からの限りなく長い苦しみを思って、修行に励み、医王である仏となって、すべての衆生の病を治すがよいと説いて、病める人を慰め、歓ばせるのである。」
文殊 「居士よ、病める人はどのようにして心を調えるか。」
維摩 「病める人はこのように思うがよい。『この病は煩悩の毒から起こったもので、実体のある法(もの)ではない。しかも、この身は仮の集まりで、主もなく我もない。どこに病を受けるものがあるだろう。』
また、病める人は、自らの病が真(まこと)にあるものでないと思うように、他人の病もそれと等しいと思うがよい。そして愛着(あいじゃく)から起こる慈悲はかえって疲れを覚えるものである。だから、もしこれを除けば、ことに臨んで縛られることはない。自ら縛られていては、他人の呪縛を解くことはできない。
また、迷いの世の中から遠ざかることを願っても、身も心も滅ぼし尽くそうとしないのが菩薩の行である。不生不滅の理法を知っても、美しい相を失うことなく、仏の国が永遠に寂滅の世界であり、空であることを知っていても、様々な仏の清らかな仏の国を観て、仏道を成就し、法を説き、または涅槃に入っても、人々を恵む菩薩の道を捨てないのが菩薩の行である。
不思議品
また、真の法を求める者は、何事も求めるものがなく、仏、法、僧の三宝にすら執着するものではない。苦しみを見てもその本となる煩悩を断とうとは思わず、さとりに至るために道を修めようとも考えない。煩悩と菩提とを異なったものと見てはならないのである。
舎利弗よ、法(もの)は皆、寂滅のものである。もし、生滅にこだわれば物事の真実の姿は見えない。
また、法(もの)は皆、執着の心から離れ、取捨の心からも離れている。執着や取捨の心を起こせば、物事の真実の姿は見えない。
また、法(もの)は、定まった姿を離れていて、一定の姿に留まることがない。よって、見聞覚知の道によっては、つかむことのできないものである。また、法(もの)は、何かのために目的をもって存在するものでもない。だから舎利弗よ、一切の物事において求める心を懐いてはならない。
舎利弗よ、あらゆる仏や菩薩達は、不可思議な解脱を得ている。すべてこの境地にある者は、大きな須弥山を芥子の中に入れ、または四大海の水を一つの毛穴に入れても、山の姿はもとのままで、海に住んでいる魚や竜、阿修羅等は、少しもそれに気がつかずにいる。また人々が願えば、七日の命を一劫(無量に近いほどの長い時間)のように思わせたり、また一劫を速めて七日のように思わしめる。または、十方のあらゆる世界の風という風を吸い尽くしてもその身を損なわず、樹々も折れることはない。
舎利弗よ、ある時は、仏の身で現れ、また聖者の身、神々の身と現れ、そして世界のあらゆる声々を変えて仏の声とし、世の無常、苦、空、無我であることを始め、様々の法をすべての人々に説く。
舎利弗よ、私は今簡略してこの不可思議の解脱の境地を説いたのであるが、もしすべてを説くならば永遠に長い時間をかけても語り尽くすことはできない。」
観衆生品
その時、文殊が維摩に問うた。
「慈(なさけ)と喜(よろこび)とは何か。」
維摩「功徳をすべての人々と共有することが『慈(なさけ)』であり、人々に幸せを恵むことが『喜(よろこび)』である。
文殊「生死に畏れを懐く菩薩は何に頼るべきであろうか。」
維摩「仏の功徳の力に頼ればよい。」
文殊「仏の力に頼るにはどうすればよいのか。」
維摩「すべての人々を解脱させるように働くとよい。」
文殊「人々を救うには、何を除けばよいか。」
維摩「その煩悩を除くとよい。」
文殊「その煩悩を除くには何を行わせればよいのか。」
維摩「正しい念(おもい)を懐かせるがよい。」
文殊「どのようにして正しい念(おもい)を懐かせればよいのか。」
維摩「すべてのものが生まれず滅ばないという不生不滅の理法を会得させるのがよい。」
【管理人訳】