●● 坐禅のすすめ ●●
坐禅はとても簡単です。何も難しく考える必要はありません。只(ただ)坐るだけです。
坐禅は自己反省をするために坐るのでもなく、今ある自己を見つめるために坐るのでもありません。
本当に只(ただ)坐るだけなのです。【只管打坐(しかんたざ)】
我々は、物心ついてこのかた日常生活の様々なできごとや体験によって自己形成してきた結果、自分というものが堅くできあがっていて、執着心から色々なこだわりをもって生きています。
そしてそれが上手くいっているうちは有頂天になり、やがて頭をぶつけたり、人から叩かれたりし、上手くいかないと、ああでも無いこうでも無いと悩んだり苦しんだり・・・本当に安らぎのない毎日を送っていることに気づきます。
そのような日常ですから、只坐るといっても、それに何の意味があるのか?自分の為になるのか?利益があるのか?などとつい考えてしまいます。しかし、坐禅は「無為」の行です。何かの為にする「有為」を離れねばなりません。
坐禅のよいところは、我々の気構え次第では、そういった人間の尺度や寸法を離れて、さらにまた自分というものも離れて、自由で広大な世界に帰入できることです。しかもそれが遠くではなく、実は日常の何気ない瞬間の中にもあったことに気づくのです。
道元禅師の「普勧坐禅儀」には坐禅の心構えと坐禅の仕方が具体的に記されていますがその中にも、
『自らの内に向かって光を当て悟りを照らし出す行をするべきである。そのとき、身も心も自然に意識から脱落して、自らの本来の面目が現前するであろう。そうした悟りを得ようと思うなら、さっそくそのことつまり坐禅に務めるがよい。 』
『いわゆる坐禅というものは、単に心を落ち着けたり、迷いを離れて仏に成ろうとする修行ではない。坐禅とは、すなわち仏の境界(きょうがい)であり、解脱の姿そのものであって、それは最高の安楽を体験する法門なのである。差別即平等、平等即差別の妙法そのままの自己となりきり、網から抜け出た魚やカゴから解き放たれた鳥のように束縛に捕らえられることがない。もしこの意味を体得できたなら、あたかも龍が水を得て天に昇るように、また、虎が山に入って力を得たように、真の自己の自由闊達で偉大な力を発揮できるようになる。すべての物事の実相が手に取るように現前し、迷いの心は消滅してしまう。』
『智慧の有る無しにかかわらず、利口であるか否かを問わず、とにかく一心不乱に坐ることだ。これが正に仏道を行じているということなのである。専一に修行する中に証(さとり)があり、そこには自ずから汚れがない。その修行の道を歩むにも日常がすべて大道にかなっているのでゆらぐことがない。 』 (管理人訳)
とあります。是非とも一度、『安楽の法門』といわれる坐禅を実践してみてください。
●道元禅師の「普勧坐禅儀」には坐禅の心構えと坐禅の仕方が具体的に記されています。「普勧坐禅儀」を現代語に訳し解説をさせて頂きましたので実際に坐禅するにあたり是非読んでみてください。
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