仏の眉間の百豪相(びゃくごうそう)の中から『仏の法を明らかにする光』があらわれ、無量の光で遍く一切の世の中を照らし、無量の人々の心の眼を覚まし、諸々の悪道の苦しみを滅ぼし、その光は弟子達をめぐり、ある菩薩の頭頂に入った。
その菩薩は、歓びに心おどる弟子達に代わり、普賢菩薩に申された。
「普賢菩薩よ、どうぞ広大で無限の『如来性起の法(真理による救済の働き)』を顕してください。」
普賢菩薩は答えた。
「仏子達よ、仏の性起の法(真理による救済の働き)は、はかり知ることはできない。それは限りない多くの因縁をもってさとりを得、この世に出てこられたからである。
限りない智慧を起こして一切の人々を見捨てず、限りない長い時の間に深く正しい心をもって善根を修め、限りない慈悲をもって人々を救い、限りない行を修めて大願を捨てず、更に限りない方便の智慧を出して法の真実の意味をのべられたことは、喩えば、大きな雲が雨を降らすのにその雨粒の数が、どれほどあるか誰にもわからないようなものである。
仏子達よ、降る雨は一味であっても、そのところによって差別があるように、仏の大悲の一味の水は、諸々の人々の機根(きこん)に応じて一様でない。この仏の性起の法は、あらゆる御仏の平等の智慧の起こすところである。そしてその一味の智慧は限りない功徳を生むのである。
仏子達よ、仏の御心はどのようにして知られるのであろうか。それは限りない智慧であるとしか知ることができない。この仏の智慧はすべての智慧の拠り所であって、他の何かに頼るものではない。
喩えば、大空はすべてのものの拠り所になりながらも、それ自体は何ものをも拠り所としていないようなものである。
また、喩えば、四つの大海の海水は、世界の大陸と島々を潤すから、もし人が水を求めるならば、どこでも得られるが、大海は、決して「我はすべてのものに水を与える。」という思いを起こすことがないのと同じく、仏の智慧もあらゆる人々の心を潤し、もし人がそれぞれ教えの実践において善根を修めるならば、皆、智慧の光を得る。けれども仏は決して「我は人々に智慧を与える」という思いを起こすことはない。
仏子達よ、仏の智慧の至らない所はない。何故かといえば、人々に仏の智慧のそなわらないことはないからである。
ただ人々はものの見方が逆さまなので、仏の智慧を知らない。逆さまなものの見方を離れれば、一切智、無相を知る智、完全な智慧を起こすであろう。
ただ、愚かな者は、もの事を逆さまに見る思いに支配されているので、仏の智慧を見ず、知らず、信心を起こさないままである。
仏は自由自在にあらゆるものを見渡す眼で一切の人々を優しく見つめておっしゃられるには、
『どうしたことであろう。何故、仏の智慧をすべて身の中にそなえながら、人々はこれを知らないのであろう。私は彼等に教えて、聖者の道を覚らせ、永遠に妄想を離れさせて、仏の智慧が身の中にあって、仏と異なることのないことを知らせよう。』
仏子達よ、仏はただ、人々を喜ばせるために世に現れ、憂え悲しみ慕わせるために涅槃を示される。しかし実際は、仏はこの世に出られることもなければ、涅槃に入られることもない。何故なら、仏は法界のように常住であるからである。
仏子達よ、喩えば、太陽は世界を照らしすべての器の水に映っても、「自分はすべての清い水に映っている」という思いはない。そのとき一つの器が壊れると、太陽は映らなくなるが、それは太陽の過失ではない。水の器が壊れたからである。
仏の円満な智慧の太陽は自在に、すべての世界、すべての人々を照らして垢を除き、常に清い心の器の中に現れる。ただ壊れた器、濁った心の人々は、常に仏の法の身体を見ないので、仏の涅槃に、おかくれになったと驚いて初めて救われるのである。そのために仏は涅槃を示されるのである。
しかし、実際には、仏は生まれず、滅びず、永遠に実在する。
また、喩えば、世界に大火事が起こり、草や木を焼き尽くしていくが、草や木や町や村がない所までいくと、その火は自ら消えていく。しかし、それは世の中の火が無くなったわけではない。仏もすべての世界に救いの火を燃やし、救いの草がない所に涅槃を示されるが、世の中から仏が居なくなられたわけではない。
離世間品
仏子達よ、仏の心を自分の心とする者は、三世(過去世・現在世・未来世)にわたり、社会にあって、その善にも悪にも分け隔てなく、すべての人々を救い、すべての人々の苦しみを代わりに受けようという大悲の心を起こす。
またすべての所有するものを捨てるために、布施をし、すべての仏の法を求めるために一切智(一切のものについて完全に知る仏の智慧)を得ようとする。そうして次のように思うであろう。
「さとりは、心を本とする。心が清ければ、すべての善根を集め満たすことができる。もし心が自在になればこの上ない智慧を備え、大いなる行ができ、誓願を成就し、すべての人々を導くことができるであろう。」と。
これを普賢の行という。
仏子達よ、仏の心を自分の心とする者は、境界(きょうがい)が自在である。さとりの境界にありながら迷いの境界に現れ、煩悩の静まった境界にありながら、煩悩に心乱された人々の境界を捨てない。彼は、大悲と智慧の誓願を起こして、人々を憐れむために濁りの世界に生まれる。そして心に思う。
「私はこの煩悩の中にあっても、智慧、解脱、禅定等を失ってはならない。何故なら、仏の心を自分の心とする者は、すべての法にわたって自在を得て、智慧に満たされ、さとりの岸を離れてはならないからである。」
【管理人訳】