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大方広仏華厳経(華厳経)



菩薩明難品

ある夜、世尊は夜更けまで弟子たちに法を説かれた。説法のお声は澄み切った空に響きわたり、このお声に四方から菩薩達が集まって来て、菩薩達の間に次のような問答が起こった。

文殊菩薩が問うた。
「心はもと一つであるのに、何故にいろいろの違った果報があるのか、ある者は善い所に生まれ、ある者は悪い所に生まれる、美しい者もあれば醜い者もある、そしてまた苦楽もいろいろに分かれている、どうしてこのように一つの心から様々な違った果報が生まれるのであろう。」

覚首菩薩はこれに答えた。
「一切の法(もの)には、もともと定まった性質がない。とういうのも、一切の法(もの)は互いに無関係のようでありながら、関連し合って、ある性質を形つくっているように見える。
例えば川の流れは一つの流れのようであるが、前の流れと後の流れは互いに別のものであり、それでいて関連し合っているに過ぎない。また灯(ともしび)の炎は燃え上がってしばらくもとどまることがないが、前後の炎は互いに別ものであるように、我々の心や感覚も前後互いに関連して様々な苦しみを作り出すようであるが、実際には前念、後念、互いに無関係であり、苦しみの性質に実体はないのである。」

文殊菩薩が問うた。
「一切の人は四大(地水火風)が集まったもので無我である。それなのにどうして苦しみや楽しみ、善や悪などの異なった果報が生じるのであろうか。法(もの)の本性にはもともと善悪がないはずではないのか。」

宝首菩薩が答えた。
「業(ごう)の作り手そのものはなくても、その縁によって生じるところの業に異なった果報が生じる。それはちょうど鏡に様々な異なるものが映っても、鏡そのものにそれらの性質があるわけではないのと同じである。また、田と蒔(ま)かれた種とは別ものでありながら、互いに関連し合うようなものである。したがって地獄の苦しみも実体をもって外から来るものではなく、縁によって心に作用した結果そこにあるように見えるだけで実際には地獄の苦しみなどはないのである。」

文殊菩薩が問うた。
「仏はただ一つの真理を覚っておられるのに、どうしてはかり知れない法を説き、はかり知れない世界に御声を満たし、はかり知れない人々を教化(きょうけ)されるのであろうか。」

徳首菩薩が答えた。
「それはちょうど火の性は一つであるが種々の物を焼き、大海の水は百千の川が流れ込んでも味に変わりなく、また大地は一つであるのに種々の芽を生じさせるようなものである。」

文殊菩薩が問うた。
「仏の法(教え)を受ければ、悩みがすべて断たれそうであるのに、どうして人は正しい法(教え)を聞きながら、悩みを断つことができないのであろうか。」

法首菩薩が答えた。
「あなたの問われているのはただ多く聞くということである。しかしそれだけでは仏の法に入ることができない。たとえて言えば、水に漂う人が溺れることを恐れる余り、かえってのどが渇いて死ぬようなもので、教えのとおりに行わなければ意味がない。種々の食物を与えられても食べずに死ぬ人があり、薬のことを詳しく知っている良医が自分の病気を治すことができず、貧しい人が日夜他人の宝を数えても自分はわずかなお金も持たず、多くの人々を集めて勝れた法を説きながら、自分の心に実際には徳の無い人のようなものである。多く聞くだけの人はただそれだけのことである。」

文殊菩薩が問うた。
「仏法の中には智慧が最も尊いのに、仏は何故人々のために、布施、持戒、忍辱(にんにく)、精進、禅定(ぜんじょう)、または、慈、悲、喜、捨など讃えられるのであろうか。これらの一々の法だけでは無上の覚を得ることができないのであろうか。」

智首菩薩が答えた。
「三世の御仏は、一法だけで覚りをえられたことはない。仏は人々の性質が同じではないことを知り、その救うものに応じて勝れた法を説かれる。物惜しみする者には布施を教え、行いが悪い者には持戒、瞋(いか)る者には忍辱(にんにく)、怠ける者には精進、心の乱れる者には禅定、愚痴(おろか)な者には智慧、残虐(無慈悲)な者には慈悲、人を害しようと思う者には大悲、憂いある者には喜(よろこび)、愛憎の念が烈しい者には平等の徳を讃えられるのである。このようにしてこそ、修行を始めたばかりの者が次第に一切の法を覚ることができるのである。たとえて言えば、宮殿を建てるのに先ず基礎を堅固にするように、布施と持戒は菩薩の修行の基本的なものである。また堅固な城が、敵からの攻撃の難を防ぐように、忍辱と精進は菩薩をよく護る。また大王が威徳をもって天下を平定するように、禅定と智慧は菩薩を安らかにする武器である。また転輪王が一切の楽しみを受けるように、慈悲喜捨は菩薩に楽しみを与える。」

文殊菩薩が問うた。
「一切の仏はただ一つの乗り物によって生死を出られるのに、なぜ説法教化(きょうけ)などが、各々の国によって異なるのであろうか。一切の仏の法を具えなくては覚りを得ることができないのではないか。」

賢首菩薩が答えた。
「法は本来常住であり、最も勝れた法はただ一法である。一切の迷いのない人はただ一つの道によって生死を出られる。すべての仏の身はただ一つの法身、一つの心、一つの智慧である。一切の仏の国は、平等に荘厳されているのであるけれども、人々の業(ごう)が異なるので、人によって見え方が異なる。仏と仏の法、仏の国、説法などは凡人には見ることのできないものである。ただ心が清らかで、諸々の誓願をもっている人のみが、真実(まこと)を見ることができる。この人は明らかな智慧の眼の開いた人である。仏は人の求道心とその業(ごう)や果報にしたがって、各々の真実を見せられるのである。これは仏の御力が自在であるからである。仏の国には異なったすがたはなく、愛憎の念はない。しかし人々がその業のために、いろいろの差別をみるのである。」



賢首菩薩品

文殊菩薩、更に菩提心の功徳を顕そうとして問うた。
「菩薩の清き行いは、すでに説かれた。その行いの功徳はいかなるものか。」

賢首菩薩は答えた。
「菩薩が発心し、生死の中で求道心を起こすと、その一念の功徳でさえも広大無辺である。仏性が因、教えが縁、因と縁によって仏を深く信じ、自分の楽しみや財宝、名誉を求めず、自分の安らかさを願わず、まず人々の苦を除こうという心を起こせ。深く仏と法を信じ、菩薩の行うべき道を信じ、菩提心を起こせ。

信はまことに道の元、功徳の母なり。善を増し、すべての疑いを除いて無上道を現す。
信は心のけがれを除き、心を清めて驕慢(たかぶり)を滅ぼし、また、敬いの心のもととなる。
信は法蔵の中には、まず第一の財(たから)なり、清き手となり功徳を受ける。
信は恵みには惜しみなく、喜んで仏の法に入る。信は智慧の功徳を増して、必ず仏身に至らしめる。
信は諸々のはたらきを明らかにし、その力は非常に堅く壊れることはない。永遠に悩みの本をなくし、仏の功徳の世界に向かわせる。
信は苦しみの境界(きょうがい)や悪魔の領域を越えさせ、あらゆる困難から逃れさせ、無上の覚りを得させる。
信は壊れない徳の種、智慧の樹のめばえである。智慧が深まって、仏の徳があらわれる。

菩薩は、世の中に合わせて人を救うが、世に染まらないことは蓮華の如く、誤ったものの見方が起これば、巧みな方法で法(おしえ)を説き、真実を悟らせる。

仏の光は人を覚らせて、道を求める心を起こさせ、欲の海をわたらせる。
仏の光は人を覚らせて、解脱の水をもって、愛欲の渇きを除かせる。
仏の光は人を覚らせて、歓んで仏の道を楽しませる。
仏の光は人を覚らせて、ものはすべて有るのでもなく、無いのでもなく、水に映った月のようであり、また幻のようであるとさとらせる。
仏の光は人を覚らせて、すべての法(真理)をたもたせ、善い人を敬い、正しい人を護り、無量の法(おしえ)を施させる。
仏の光は人を覚らせて、仏をおもい仏に出逢わせ、仏の前に生まれさせる。
仏の光は人を覚らせて、法を聴き、説き、楽しませ、よく法を護り伝え、正しい法を修めさせる。
仏の光は仏の子を覚らせて、世の中のあらゆる声を御仏の声と聞かせる。



金剛幢菩薩廻向品

世尊がマガダ国中を遊行されていたが、再び王舎城に帰り、霊鷲山にとどまられた。ある夜、世尊を取り囲んで多くの神々や菩薩が集まった。世尊は星空の月のように威厳をもって輝きを放っていらっしゃった。

その時、金剛幢菩薩は坐を立ち、仏の御力を承り、諸々の菩薩に告げた。
仏子等よ、菩薩は親しい者にも親しくない者にも差別なく、諸々の善根を与える。何故かといえば、菩薩は常に何ものをも平等に観て、親疎の別はなく、いつも慈しみの眼で人々を観るからである。たとえ人々が悪い心を懐いて菩薩に怨みを起こしても、菩薩は一切の人々の善知識となって、広く諸々の奥深い法を説き明かす、喩えば、どのような毒でも、大海の水を汚すことができないように、一切の人々は愚かにして恩に報いることも知らず、瞋(いか)り高ぶって善い教えを知らないでいても、菩薩の心を乱すことはできない。
菩薩はまた、心に思った。「菩提心を起こすことは、全く仏の御力である。この心は大きく平らかで、怠ることはない。菩提心とは、諸々の仏と等しきものである。」

菩薩はこのように諸々の善根を思いうかべ、清らかな信念をもって慈悲心をそだて、諸々の善根を人々に与える。それは口ばかりでなく、歓喜の心、明らかな心、柔らかい心、慈しみの心、愛の心、摂(おさ)めとる心、饒(めぐ)む心、安楽の心、勝れた心でそれらの善根を与えるのである。そして、心に思うよう。「すべての人々は諸々の善からぬ業をなし、その業のために限りない苦しみを受け、仏を見たてまつらず、正法を聞かず、善き人を識らない。この人々は限りない罪業があり、限りのない苦しみを受けなけれならない。それであるから私は、地獄の中で彼等に代わってことごとくその苦しみを受け、我が身をもって一切の悪道の人々を救い、苦しみから脱れさせるであろう。

仏子等よ、菩薩は一切の人々に、仏を見させ、法を聞き、敬いの心で善き人に近づかせるようにする。また専ら仏を思い、法を思い、僧を思って、尊び敬わせるようにする。

仏子等よ、自我(おのれ)を忘れる者は、やがて一切のものを我が物とする。報酬を求めないから、一切の善根は我を離れず、身を捨てて供養するから一切の仏のさとりを摂(おさ)め取り、障りを離れるから一切の法を摂め取り、諸々の願いを満たすから菩薩の一切の行を摂め取り、諸々の煩悩を清めるから一切の人々を摂め取り、一切の仏の法を護り持(たも)つから一切の仏の性を摂め取る。

仏子等よ、菩薩はこの善根を廻向して、一切の仏の国を清め、一切の人々を浄め、一切の法界を仏で満たさしめる。



十地品

世尊は成道されて次のように言われた。
「もともと、すべての法(もの)は平等である。不変の性質もなく、特別の相(そう)もない。本来煩悩に染まらぬ清浄なものであるから平等である。道を修める者は、すべての法(もの)の平等を観て、大慈悲の心を起こして、世間の苦しみを観じとり、『世間に差別が生ずるのは我に執着するからであり、もし我に執着することを止めれば、世間に差別あるものはなくなるであろう。しかし、凡夫はすべては皆平等であるという根本のさとりを知らないから、因縁によって生じる差別を見てしまう。しかし我と我所、つまり、作るものと作られるものという差別がないことを知れば、執着される三界は、ただ一心から現れた虚妄な心の影であることが知られ、執着することもなくなるであろう。まことに因縁による差別は皆心より起こるのである。」

このように世尊の静かな御心の海には、今このようにすべてのものが、その明らかなすがたを映し出している。この境地は、まことに何ものをもっても讃え尽くせるものでない。



宝王如来性起品

仏の眉間の百豪相(びゃくごうそう)の中から『仏の法を明らかにする光』があらわれ、無量の光で遍く一切の世の中を照らし、無量の人々の心の眼を覚まし、諸々の悪道の苦しみを滅ぼし、その光は弟子達をめぐり、ある菩薩の頭頂に入った。
その菩薩は、歓びに心おどる弟子達に代わり、普賢菩薩に申された。
「普賢菩薩よ、どうぞ広大で無限の『如来性起の法(真理による救済の働き)』を顕してください。」

普賢菩薩は答えた。
「仏子達よ、仏の性起の法(真理による救済の働き)は、はかり知ることはできない。それは限りない多くの因縁をもってさとりを得、この世に出てこられたからである。
限りない智慧を起こして一切の人々を見捨てず、限りない長い時の間に深く正しい心をもって善根を修め、限りない慈悲をもって人々を救い、限りない行を修めて大願を捨てず、更に限りない方便の智慧を出して法の真実の意味をのべられたことは、喩えば、大きな雲が雨を降らすのにその雨粒の数が、どれほどあるか誰にもわからないようなものである。
仏子達よ、降る雨は一味であっても、そのところによって差別があるように、仏の大悲の一味の水は、諸々の人々の機根(きこん)に応じて一様でない。この仏の性起の法は、あらゆる御仏の平等の智慧の起こすところである。そしてその一味の智慧は限りない功徳を生むのである。

仏子達よ、仏の御心はどのようにして知られるのであろうか。それは限りない智慧であるとしか知ることができない。この仏の智慧はすべての智慧の拠り所であって、他の何かに頼るものではない。
喩えば、大空はすべてのものの拠り所になりながらも、それ自体は何ものをも拠り所としていないようなものである。
また、喩えば、四つの大海の海水は、世界の大陸と島々を潤すから、もし人が水を求めるならば、どこでも得られるが、大海は、決して「我はすべてのものに水を与える。」という思いを起こすことがないのと同じく、仏の智慧もあらゆる人々の心を潤し、もし人がそれぞれ教えの実践において善根を修めるならば、皆、智慧の光を得る。けれども仏は決して「我は人々に智慧を与える」という思いを起こすことはない。

仏子達よ、仏の智慧の至らない所はない。何故かといえば、人々に仏の智慧のそなわらないことはないからである。
ただ人々はものの見方が逆さまなので、仏の智慧を知らない。逆さまなものの見方を離れれば、一切智、無相を知る智、完全な智慧を起こすであろう。
ただ、愚かな者は、もの事を逆さまに見る思いに支配されているので、仏の智慧を見ず、知らず、信心を起こさないままである。 仏は自由自在にあらゆるものを見渡す眼で一切の人々を優しく見つめておっしゃられるには、
『どうしたことであろう。何故、仏の智慧をすべて身の中にそなえながら、人々はこれを知らないのであろう。私は彼等に教えて、聖者の道を覚らせ、永遠に妄想を離れさせて、仏の智慧が身の中にあって、仏と異なることのないことを知らせよう。』
仏子達よ、仏はただ、人々を喜ばせるために世に現れ、憂え悲しみ慕わせるために涅槃を示される。しかし実際は、仏はこの世に出られることもなければ、涅槃に入られることもない。何故なら、仏は法界のように常住であるからである。

仏子達よ、喩えば、太陽は世界を照らしすべての器の水に映っても、「自分はすべての清い水に映っている」という思いはない。そのとき一つの器が壊れると、太陽は映らなくなるが、それは太陽の過失ではない。水の器が壊れたからである。
仏の円満な智慧の太陽は自在に、すべての世界、すべての人々を照らして垢を除き、常に清い心の器の中に現れる。ただ壊れた器、濁った心の人々は、常に仏の法の身体を見ないので、仏の涅槃に、おかくれになったと驚いて初めて救われるのである。そのために仏は涅槃を示されるのである。
しかし、実際には、仏は生まれず、滅びず、永遠に実在する。
また、喩えば、世界に大火事が起こり、草や木を焼き尽くしていくが、草や木や町や村がない所までいくと、その火は自ら消えていく。しかし、それは世の中の火が無くなったわけではない。仏もすべての世界に救いの火を燃やし、救いの草がない所に涅槃を示されるが、世の中から仏が居なくなられたわけではない。



離世間品

仏子達よ、仏の心を自分の心とする者は、三世(過去世・現在世・未来世)にわたり、社会にあって、その善にも悪にも分け隔てなく、すべての人々を救い、すべての人々の苦しみを代わりに受けようという大悲の心を起こす。
またすべての所有するものを捨てるために、布施をし、すべての仏の法を求めるために一切智(一切のものについて完全に知る仏の智慧)を得ようとする。そうして次のように思うであろう。
「さとりは、心を本とする。心が清ければ、すべての善根を集め満たすことができる。もし心が自在になればこの上ない智慧を備え、大いなる行ができ、誓願を成就し、すべての人々を導くことができるであろう。」と。
これを普賢の行という。
仏子達よ、仏の心を自分の心とする者は、境界(きょうがい)が自在である。さとりの境界にありながら迷いの境界に現れ、煩悩の静まった境界にありながら、煩悩に心乱された人々の境界を捨てない。彼は、大悲と智慧の誓願を起こして、人々を憐れむために濁りの世界に生まれる。そして心に思う。
「私はこの煩悩の中にあっても、智慧、解脱、禅定等を失ってはならない。何故なら、仏の心を自分の心とする者は、すべての法にわたって自在を得て、智慧に満たされ、さとりの岸を離れてはならないからである。」





【管理人訳】






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