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仏教聖典(全文掲載)

仏教聖典 掲載経典一覧
仏教経典から主要な部分を集めた仏教聖典
財団法人仏教伝道協会様のご承諾を頂き
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仏教聖典は仏教の一切経から主要な部分を集め
読みやすい現代語でまとめられたものです。

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仏教聖典目次
法輪・法句経
ほ  と  け
第1章 史上の仏
1.偉大な生涯
2.最後の教え
第2章 永遠の仏
1.いつくしみと願い
2.救いとその手だて
3.仏はとわに
第3章 仏の姿と仏の徳
1.3つのすがた
2.仏との出会い
3.すぐれた徳
お  し  え
第1章 因縁
1.4つの真理
2.不思議なつながり
3.ささえあって
第2章 人の心とありの
ままの姿



1.変わりゆくものには
実体がない

2.心の構造
3.真実のすがた
4.かたよらない道
第3章 さとりの種
1.清らかな心
2.かくれた宝
3.とらわれを離れて
第4章 煩悩
1.心のけがれ
2.人の性質
3.現実の人生
4.迷いのすがた
第5章 仏の救い
1.仏の願い
2.清らかな国土
は  げ  み
第1章 さとりへの道
1.心を清める
2.善い行い
3.仏のたとえ
第2章 実践の道
1.道を求めて
2.さまざまな道
3.信仰の道
4.仏のことば
な  か  ま
第1章 人のつとめ
1.出家の生活
2.信者の道
第2章 生活の指針
1.家庭のしあわせ
2.女性の生き方
3.もろ人のために
第3章 仏国土の建設
1.むつみあうなかま
2.仏の国
3.仏の国をささえるもの
パーリ語聖典 増支部




聖語録


如来の滅度の後に、もし人あって妙法華経の乃至
一偈一句を聞いて、一念も随喜せん者には
我また阿耨多羅三藐三菩提の記をあたえ授く



 ―――― 法華経 法師品









わたしをののしった、わたしを笑った、わたしを打ったと思う者には、怨みは鎮まることがない。
 怨みは怨みによって鎮まらない。怨みを忘れて、はじめて怨みは鎮まる。
 屋根のふき方の悪い家に、雨が漏るように、よく修めていない心に、貪りのおもいがさしこむ。
 怠るのは死の道、努め励むのは生の道である。愚かな人は怠り、智慧ある人は努め励む。
 弓矢を作る人が、矢を削ってまっすぐにするように、賢い人は、その心を正しくする。
 心は抑え難く、軽くたち騒いでととのえ難い。この心をととのえてこそ、安らかさが得られる。
 怨みを抱く人のなすことよりも、かたきのなす悪よりも、この心は、人に悪事をなす。
 この心を、貪りから守り、瞋りから守り、あらゆる悪事から守る人に、まことの安らかさが得られる。







仏教悩み相談室回答例


仏教聖典用語解説集に、「我」は他宗教でいう霊魂にあたる。という説明がありましたが、そもそも仏教では魂の存在は考えられているのでしょうか。・・・
一般に魂といった場合、無明の迷った眼からすると魂は固定的に「ある」と思ってしまいがちです。しかし仏教では、その『存在』の仕方、つまり、いか様に存在するのかについての悟りを教えています。 釈尊は、この世の人や物は『縁に因って生じ縁に因って滅びる』ので本来は無我であり空なるものであると説かれます。例えば、ロウソクの炎は一つの炎が燃えているようにみえますが、一瞬一瞬の燃焼の連続に過ぎず、どの炎と特定できるものはありません。仏教では我々を含む全ての存在の仕方も、この炎のように原因と結果の連鎖によってできただけの空なるものと説きます。そこには主体となるような存在(我)はないという意味で「諸法無我」と説くのです。

従って「我」という固定的な主体(他の宗教でいう霊魂)があって、それが輪廻していくのではなく、全てのものが固定的な自性なく無常に移りかわっていくという意味で輪廻(流転)しているといえます。この無我である実相に対して「我」というものを妄想してしまうと、この流転が生老病死などの苦しみを生み出すことになるのです。逆に、そういう意味の「我」は無いと悟れば、流転する実相そのものと同一の大我に融け入って苦しみもなくなるわけです。

なお、一般に釈尊の教えで矛盾するように見えるものがあるのは、釈尊の教えには大きく分けて二つの相があるからです。それは、我々の誤まった認識を否定するための教え(無常、苦、無我、不浄)の教えと、否定し終わった後に正しい認識を肯定するための教え(常、楽、我、浄)です。前者は阿含経などの権教であり、後者は法華経などの実教です。



金剛般若経の「應無処住而生其心」とは、こころは生じる場所がないのに、生じている」といっていると思います。こころが無我とか無自生ということですが、「心はどこにあるのか。こころはどこにもない」ということを禅では何というのでしょうか。・・・
「應無処住而生其心」は「まさに住する処無くして、その心を生ずべし」と読み、「無執着の心を起すべきである」という意味です。つまり逆から言えば「形・声・香り・味・感触など全ての心の対象に執着を起こしてはならない」という意味です。

「心はどこにあるのか。こころはどこにもない」について

無門関第41則(達磨安心)に次のようにあります。

二祖慧可「弟子未だ心安からず、乞う師安心せしめたまえ」
達磨  「心をもち来たれ、汝が為に安んぜん」
二祖慧可「心を求むるについに不可得なり」
達磨  「我汝が為に安心せしめおわんぬ」

片腕を切り落としてまでその菩提心の強さを達磨大師にわかってもらった二祖慧可は、達磨に「自分の心を安心させて下さい」と懇願します。すると達磨は「心を安心させてやるから、ここへ持って来い。」と言いました。しかし慧可は「ついに心を見つけることができませんでした。」と言うしかなかったのです。



仏教では「すべて無である」と説いていますが、善悪のうちの善を勧めるのは何故ですか?善悪は人が決めたもので、本来はすべて無であるということと矛盾を感じますが・・・
禅でいう『無』は仏教の「空」とか「無我」とも通じる言葉ですが、「我」があるということは自他を区別した上で自己を中心とした欲望を生み出します。それに伴って人々は互いに争い、いがみ合うこととなり、身・口・意(行い・言葉・心遣い)も、人の世で言う「悪い」行いや言葉遣い、心遣いになってしまいます。それは自己というものに執着した姿であり、すなわち地獄・餓鬼・畜生といった三悪道の苦しみの境界(きょうがい)に住している姿です。これに対し、「無我」で「空」に住している仏様の境界(きょうがい)というのは、自然に慈悲に満ちていて、人の世で言う「善い」行い・言葉・心遣いになっているのです。しかしそれは善に執着しているようなものではなく善悪の二見を越えた安らぎの境地です。

仏教で諸悪莫作・修善奉行、善因善果・悪因悪果を説いているのは、仏の慈悲で、衆生の三悪道の苦しみが因果律によって起こっていることを教え、まずは苦しみの連鎖から逃れさせるためのものです。しかし、それだけでは天上界を頂点とする六道輪廻の世界からの解脱はできません。そこで、仏教では善悪の二見を越えた安らぎの境地である「空」を教えるのです。その境地に住すれば、水が器に従うように、何の問題もなく自然に世間一般の善の基準にかなうものとなり、善を行っている意識もなく何をしても知らぬ間に善を行っているようになります。それは当然、善の報いを求めるものではありません。つまり、それは「善悪の彼岸」である解脱の安らぎの世界に住する者の行住坐臥にすぎないのです。




最初は仏教をどのように学んでいけばよいでしょうか。どちらかの団体に属した方がよいのでしょうか・・・
仏教には、「自燈明 法燈明」つまり、「自らを依りどころとし、法を依りどころとせよ。」という言葉があります。
一般に、仏教を学び修行するには、どこかの集団に属さないといけないと思いがちです。しかし、そうではなく、自らの菩提心によって、仏陀の教えを頼りに悟りへの道、衆生救済への道を歩まれるのが最良の道であるということです。同じ道を歩む者同士ならば、ともに学び、ともに支えあうこともあってよいとは思いますが、宗教団体となってしまうと、各人の悟りとは無関係な次元での患いが生じ、その弊害の方が大きくなるようですので、どちらかの宗派や宗教団体に属されることはあまりお勧めできません。あくまでも仏陀の法(教え)と自らを依りどころとして一歩一歩着実に進まれることです。

ではその教えについてですが、仏教には蔵教・通教・別教・円教の四種類の教えがあります。その全ての種類の教えが仏教聖典には収められています。この中で、最後の円教が完全な教えなのですが、内容が深すぎて初めのうちはその意味が理解しにくい場合もあります。 (円教とは法華経のことで、当HPにも法華経の中心の
妙法蓮華経第十六を載せています)
それゆえ、初めは生活に即した教えである蔵教(パーリ語聖典や法句経、阿含経など)を中心に学ばれると、入っていきやすいかと思います。
ただ、とても重要なことは、仏教とは、日頃無常に消え行くと思っているこの小さな自己が仏陀の無限で永遠の命を生きることができる教えであるということです。また死後の成仏ではなく生きたこの身のままで仏の国に入れる教えなのです。どうかそのように信じて日々教えを学び実践されてください。

仏教聖典より

仏の身はさとりであるから、永遠の存在であってこわれることがない。食物によって保たれる肉体ではなく、智慧[ちえ]より成る堅固な身であるから、恐れもなく、病もなく、永遠不変である。だから、仏は永遠に滅びない。さとりが滅びない限り、滅びることはない。このさとりが智慧の光となって現われ、この光が人をさとらせ、仏の国に生まれさせる。(ほとけ 第3章仏の姿と仏の徳 第1節3つのすがた2.) 
たとえ、わたしから離れること何千里であっても、心が正しく静かであり、欲を離れているなら、彼はわたしのすぐそばにいる。なぜかというと、彼は教えを見ており、教えを見るものはわたしを見るからである。(なかま 第1章人のつとめ 第1節出家の生活1.)



仏教には現世利益の霊験があるというお経や陀羅尼が存在します。それらは「信心」がなければ読んでも効果がないのでしょうか。自分のためでなく他者のために読んでも効果がないのでしょうか。・・・
世間にはそのような現世利益のみを言われる所もありますが、お釈迦様の本当の教えでは、逆に真の信心さえあれば、現世安穏、後生善処と説かれています。現世利益だけを求める心は本当の信心とは全く反対の心です。仏教の本当の利益は現世利益といわれるものと比較にならないほど素晴らしい利益です。現世利益そのものは、飲んでも飲んでも喉が潤わない水のようなもので、真の利益は一度飲めばもう喉の渇くことない水なのです。自分がその境界(きょうがい)になれば周りにいる他者も真の幸せに導かれ救われます。



お釈迦様のお生まれになったインドは、悟りを開くのに一番いい国でしょうか。・・・
お釈迦様は法華経で「即是道場」の教えを説かれています。

「まさに知るべし、この処は即ち是れ道場なり。諸仏ここにおいて阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏ここにおいて法輪を転じ、諸仏ここにおいて般涅槃したもう。」

これは、お釈迦様の教えを真に信じ修行しようとするところはどこでもそこが道場であり仏様のいらっしゃる場所である、ということで、つまりは、私たちがどこか他所に向って聖なる地を求める必要のないことが説かれています。



生命を「ある」と見るのは迷いでしょうか。・・・
お釈迦様の説かれた十二因縁にいう無明に始まり生・老死に至る循環の意味は、大まかに言えば、無明から生・死という有為転変の苦しみが生まれるということです。
仏教とは、「生命が厳然と存在している」といった日頃我々が当り前と思っていることを否定し掘り下げていく教えなのです。
生命は「ある」のか「ない」のかについて、我々は普通、生命は「ある」と思って生きています。これを仏教では「有の見」といいます。これに対し「ない」と思うのも「無の見」といわれます。どちらも偏見であるとされ、この有無の二見(無明)をはなれる必要があると説きます。
有名な「いろは歌」に、「有為の奥山今日越えて」とあるのは、この有無の二見を超えて、中道実相を悟るということであり、そこに「浅き夢見じ、酔いもせず」という「寂滅をもって楽と為す」世界が開けてくるのです。

色は匂へど 散りぬるを
色美しく咲き誇っている花も、やがては散ってしまう。(諸行無常)
我が世誰そ 常ならむ
この世のものはすべて生じては滅するものである。(是生滅法)
有為の奥山今日越えて
この無常の有為転変の迷いの奥山を今日越えて(生滅滅已)
浅き夢見じ 酔ひもせず
寂滅の悟りの世界に至れば、はかない夢を見ることも、現象の世界に酔いしれることもない安らかな境地である。(寂滅為楽)



キリスト教の聖書の中では神が人間を創ったと教えていますが、仏教には神は存在しないのでしょうか・・・
まず、キリスト教などは聖書に基く宗教ですが、旧約聖書と新約聖書で明らかに内容が違いますので、その点からお話します。
一般に天地創造の神と呼ばれているエホバ神は旧約聖書の神です。これは本来、ユダヤ教の神であり、天地を創造し、最初の人間を創り、人々の上に君臨して人々に完全な隷属と服従を要求する唯一絶対の神と信じられています。したがって、ユダヤ教では創造主である神と人間は厳格に区別されていて神と人間の融合などは絶対にありえません。
これに対し、新約聖書の神、つまり、イエス・キリストが父と呼んだ神は、旧約聖書の神とは全く異なります。すなわち、キリスト教でいう「三位一体」という言葉からもお分かりのように、父と子と精霊(神の言葉)は一体であるとの教えであり、つまり、「人の子」として生まれたイエスが父なる神と一体であるとの教義がその最も深い教義であるとされているのです。これは仏教でいわれる人間が仏になるとの教義や一体三宝(仏法僧は一体)という教義と相通じるものがあります。
さらに、仏教では、この世界や人間などを創ったからその神が偉いといった考え方はしません。むしろそうした矛盾に満ちた世界観からの解脱を説きます。つまり、仏教ではあらゆるものは因縁によってできてきたもので、常に流転して変化しつづけている空なるものと見ますので、最初に誰かが創ったという考えは妄想として否定されます。
現代においても、それぞれの民族が唯一絶対と崇拝する神を掲げて互いに争っていますが、これも仏教的にみれば長年の間に妄想により形成された執着心が互いに激しくぶつかり合っている姿です。




キリスト教でいいます原罪について仏教ではどのように説明、教えているのでしょうか・・・
旧約聖書の創世記にあるアダムとイブの原罪という概念を仏教でさがすとすれば「元本の無明」というものがあります。 楽園に現れた蛇にたぶらかされ、善悪の知恵の果実を食べたことにより、楽園を追放された・・。これを仏教的に言えば、本来仏である衆生が、第六天の魔王にたぶらかされて一念の分別心(自己愛の念)を起したということであり、それがいつとも知れない過去からの元本の無明となって、その無明を原因として十二因縁論に説かれるような因果がめぐり、彼岸、浄土、涅槃といった本来住んでいた安穏な世界を見失い、此岸、穢土、生死という苦悩に満ちた世界に転落しているのが、我々衆生であるといえます。
この意味では、創世記にあるアダムとイブの原罪の説は、仏教的にも充分うなずけるお話ではあります。ただ、それは人類の歴史的事実として見るべきものではなく、上記のように私達の個々の実存を深く内省したときに気付かれる事柄であり、そうした事柄を寓話的に物語ったものとみるべきでしょう。
更に、イエス・キリストが十字架にかかられたことは、この世での自らの繁栄を目標とし彼岸をもたない宗教であるユダヤ教徒に、命を賭して神の福音を述べ伝える愛の実践であり、このキリスト精神は、即ち、肉体としての生命において死に、真実の永遠の生命を得ることなのでしょう。そしてこのユダヤ教徒とは決して他人ごとではなくすべての迷える人々のことでもあります。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思うものはそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。」(マルコによる福音書8.34-35)

この永遠の生命とは即ち神の国であり、楽園なのです。このような意味でキリスト精神を信じるものは、原罪を超克して、自分自身が神の国の住人であったことに気付くことでしょう。

『神の国がいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた。神の国は、見られるかたちで来るものではない。また「見よ、ここにある」「あそこにある」などとも言えない。神の国は、実にあなた方のただ中にあるのだ。』(ルカによる福音書17.20)




お経に「わが教えは、ただ信によってのみ入ることができる。」とありますが、ここでいう「信」とはどういうことでしょうか・・・
一般的に考えると自己があって外に絶対的他者があり、それを信じるというように思われがちです。しかし、仏教は「無我」の教えですから、「信」といった場合、それは自己があってその自己が何かを信じるのではなく、自己か信かのどちらかであり、そのうちの信をとるということです。
すなわち、自己を中心としてその中に「信」を取り込むことは永久にできません。自己を捨て信に生きるのです。それが「南無」(帰命)ということです。
この時初めて、大いなる光の中に生かされているという気づきがあり、「衆生本来仏なり」といわれることの意味も理解されます。そしてその時こそ、偽りの自己ではない、「信」(まこと)の自己を取り戻すのです。
念仏・唱題や坐禅も無我になり大いなるものの慈悲の輝きそのもののになりきっている姿であって、その人の日常はすべてが永遠の光を放つのです。



科学と仏教・・・
物理学や化学なども付きつめていけば仏教で説かれている真理に矛盾はないはずです。仏教の教えは真理を説かれていますので時代を超えて今の時代にも通じるものがあるのではないでしょうか。
アインシュタイン博士も、
「至高の宗教はユニバーサルなものであるべきだ。それは人格化した神を超越したもので、硬直化した教義および宗教理論を止揚し、すべての自然と精神を内包し、人間の万物に対する経験から生まれた宗教意識に基き、まさに自然と精神が結びついたひとつの有為義な統一体となるべきもので、仏教こそがこうした条件に合致している宗教である」
と言われています。
物質的なものだけを研究する科学を超えて、更に物質も精神も統一体として捉えて矛盾なく理解し、すべての人類の幸福と繁栄に尽くすべきご使命が貴方にあるからこそ、そこまで素晴らしい科学者でありながら仏道の方に導かれていらっしゃるのではないかと拝察致します。
宮沢賢治さんも科学者でしたが、法華経を研究し修行されて悟りまでいかれました。すべてを統一する宇宙的な高い教えといわれる法華経を研究されてみてはいかがでしょうか。
今さら申し上げるまでもないことですが、今現在の状態がどのような状態であっても一番素晴らしいものを、仏様からお与え頂いておりますので、感謝の行が一番大切かと存じます。
 



色々な悩みを抱えた上で判断するとき・・・
お経に「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」 とございます。
過去の出来事は今どこへいったのでしょうか。未来の出来事はまだどこにも存在しません。
そして、今現在はどうでしょうか?今すらも瞬時に流れ去り、つかむことはできません。
我々は日頃何かを取り入れたり、つかんだり、自分のものにしたりできると考えがちですが、
実は、過去も、現在も、未来も、どの時点もしっかりとつかめるものなど存在しないのです。
なのに、過去に何かをつかめていたのでは?と考えるから、今の心で残念に思ったり後悔したり、また、未来をつかもうとするから、今、将来のことを徒に心配してしまうわけです。
では自分の身の上に起こることをどう捉えていけばよいのでしょうか。それは、まず、自分の身の上に起こることは全て仏様の御慈悲からくるものであって、自分のこころの至らなさや、思い違いを正し、如実に物事を見ることができるようになるために与えていただいた素晴らしい贈り物だ感謝して受けとめることです。
しかし、そうはいっても、我々はどうしても人間心で良し悪しを判断し、自分の運命を呪ってしまいがちです。そこで仏様から与えられたのが、「祈り」というものです。それは、何かを願う祈りというよりも、ただ、祈るという行為です。
人は考えることは得意なのですが、何も考えないことは苦手な生き物です。考えというものが、人を苦しみに縛り付けるものですから、考えてどうにかなると思う心を捨て、できるだけ考えというものをなくしていくのです。坐禅などで心を鎮めていく方法もありますが、日常的な環境のなかで常時できるのはやはり「祈り」なのです。これは実践すればするほど効果があらわれます。最初、自分の心が強く祈りは弱いものですが、日々祈り続けていると心よりも祈りの方が強くなってくるものです。そのようにして、ある日、いつの間にか、もう何事にもとらわれず動じない自分になっていることに気づくのです。
それで、どのように祈るかですが、当サイトでご紹介しております「延命十句観音経」を仏様の慈悲に感謝しながら唱えてみられてはいかがでしょうか。
生まれた者にとって、老・病・死というものはさけて通れないものです。人生設計も、そうしたことを考慮し、少欲知足でムダのないものにされることが大切かと思います。もし実体のない「世間」という観念に引きずられて自己の人生を見失ってしまうと、後々に苦しみをまねくだけです。とにかく、お体を大切にされてご無理のないようにされてください。
何事かを判断される場合、上に申しましたように、とらわれた心ではなく祈りから与えられる智慧によってご判断されるのがよいでしょう。
そうすればご自身の中で自ずと答がでてくるはずです。 




なぜ中道という考え方があるのに「正しい」ことがあるのですか? また、正しい行いと正しくない行いには差があるのでしょうか・・・
中道というのは、「中道実相」のことで、事物のありようのことです。 事物は無常であり空であり、つかむことのできないものであるということです。これは仏教でいう「色即是空」にあたります。 しかし「空」というものが独立してどこかにあるのではありません。 空は事物として現れているのであり、これは「空即是色」にあたります。 つまり、日頃我々は心や事物が「有る」と思い込んでいますので、それが実は空であると知ることが一つの智慧です。更に、逆にその空が展開したものがこの世のあらゆる事物であると知ること、これが第二の智慧です。 この両方の見方を矛盾なく見て、いずれにかたよることもないものの見方が第三の智慧であり、それが「中道」です。 仏教において「正しい」というのは、世間的に自己の立場から見た、善と悪、正と邪という意味での「正しい」というのとは異なり、中道にかなっていることを指します。 「中道」とは、上記のようなものの見方であり、つまりは悟りの心のことと考えればよいでしょう。 とすれば、正しい行いと正しくない行いとは、悟りの行いと迷いの行いと言い換えることができそうです。迷いの行いは自己を苦しめる結果となるという点で、悟りの行いとは差があるといえます。 迷いの心で見た善悪正邪の「正しい」と、仏教でいう「正しい」との違いは上記のとおりです。 (参照 仏教聖典 第4節 かたよらない道 )



色即是空、空即是色の色の違いは・・・
悟りに至る過程を段階的にみる別教の観点からは、 色即是空の「色」は「空」を悟る前の凡夫の見る事物の差別相であり、 空即是色の「色」は「空」の悟りの目を得た後に観る、 事物が「空」なるままに現している差別相のことです。
この場合、二つの「色」は一応違うものとして説明されます。
しかし、例えば道元禅師の只管打坐(仏行としての坐禅)などの 円教的観点からは、「色即是空、空即是色」は一体として捉えられ、 事物そのままが実相であるという『諸法実相』の理を意味することに なります。この場合、二つの「色」はまったく同一のものです。 (般若心経)




日本仏教の開祖、聖徳太子は言われました。(十七条憲法より)・・・
「篤く三寳を敬え。三寳とは仏法僧なり。すなわち生きとし生けるものの最後のよりどころであり、あらゆる国の政治や教育の根本である。いつの時代、いかなる人でもこの教えを大切にしなければならない。およそ人間というものには根っから極悪非道のものはない。よく教えて導いていきさえすれば必ず善きに従うものである。この三つの寶によらなければ、人間のまがったかたよりを直しただすことはできない。」と。



菩提心について・・・
道元禅師の「学道用心集」の第一に「菩提心を発すべき事」とあります。その中で、道元禅師も、菩提心とは「無常観」のことであると明言され、「無常を観ずるの時、吾我の心生ぜず、名利の念起こらず」とあります。この世で一番大事だと思っている自我や世間の名利などは幻に過ぎないという真実を実感し、本来の自分(仏性)に戻ることが大切です。しっかりと無常観をもたずに仏教の信仰や修行をすることは邪道に迷い込む結果となるのです。

『たとえばよき医者の一切の病を滅するが如し。菩提心も一切衆生もろもろの煩悩の病を滅す。』(華厳経)
『初発心の時、すなわち正覚を成ず』(華厳経)
『初心畢竟、二にして別なし、是の如きの二心、先心難し。未だ自ら得度せざるに先ず他を度す。是の故に我、初発心を礼す』(涅槃経)



煩悩即菩提と四弘誓願の煩悩無尽誓願断について・・・
真っ暗な部屋では色々な家具が置いてあっても頭をぶつけたり、つまづいたりしますよね。 でもその部屋に明かりを灯せば、頭をぶつけたり、つまづいたりしないで、家具を本来の目的に使いこなすことができます(煩悩即菩提)。
ですから家具を壊したり、捨てたりするのではなく、智慧の明かりを灯すために仏の教えを学び、かつ修行することに勤めようというのが、煩悩無尽誓願断です。
智慧の明かりによって、無明を脱すれば煩悩・業・苦の三道は法身・般若・解脱の三徳に転じるわけです。

<四弘誓願>
衆生無辺誓願度(衆生は無辺なれども誓って救おう)
煩悩無尽誓願断(煩悩は無尽なれども誓って断とう)
法門無量誓願学(法門は無量なれども誓って学ぼう)
仏道無上誓願成(仏道は無上なれども誓って成就しよう)



智慧の明かりとは・・・
「見思の惑」と申しますが、これは我々の心の暗闇のことで、「見」というのは思想とか考え方、「思」というのは感覚とか感情のことです。世の中は常ならず無常なるものであると知れば見惑は破れますが、思惑の方は身に染み付いてなかなか根深いもので、これを破るには根気強く修行していくしかありません。つまり、考えとしてわかっただけでなく、感覚・感情にまで無常を納得させ、まずは空に住するといった状態を体得されることでしょう。



食について・・・
食前に「五観の偈」を唱えるだけでも食が正されていくことと思います。
一つには功の多少を計り、彼の来処を量る。
二つには己が徳行の全欠を忖って(はかって)供に応ず。
三つには心(しん)を防ぎ過(とが)を離るることは、貪等(とんとう)を宗とす。
四つには正に良薬を事とするは、形枯(ぎょうこ)を療ぜんが為なり。
五つには成道の為の故に、今此の食を受く。

一つには、今、目前にある食事が出来てくるまでに、どれ程の人々の手間を労したことか、その食材がいかなる経路をたどってここまで辿り着いたか、また、食材となった他の命の犠牲の上に自己の命が保たれていることにも思いを馳せ、感謝して頂きます。
二つには、そうした有り難い供養である食事を受けるに際し、それにふさわしい正しい行いをしていただろうかと自己を反省して頂きます。
三つには、心のおもむくままの放縦・我が儘に陥ることを防ぎ、罪過を離れるためには、貪り、怒り、愚かをなくすことがその根本であることを思い、食を貪ることのないよう心して頂きます。
四つには、食事というものは、あくまでも身体を維持し痩せて衰弱するのを防ぐための、謂わば「良薬」であると心得て頂きます。
五つには自他共に人生の最大目的たる無上道(人格の絶対完成)を成ぜんが為に、この食を頂くことを観念し、感謝して頂きます。

一々の食材と多くの人々の労力に対する感謝とともに、食事は自己の反省の機会であり、貪欲を離れる修行の場であると認識し、仏道を成ずる為に必要な身体が痩せ衰えてしまわないよう良薬として最低限必要なものを頂くという心構えです。 こうした認識が一般的になれば、グルメなどと肥大化した貪欲を満足させるために、しなくてもよい殺生をせずにすむかと思います。
我々の日々の命は多くの犠牲の上に成り立っていることを思い、それらの者達へ仏道の功徳を回向できるようにありたいものです。



「明々百草頭」の意味は・・・
碧巖録も読まれているとのこと。碧巖録等は禅の公案集です。通常、公案は、師家から与えられます。修行者は坐禅をしながら、その公案と格闘する中で「何か」を体験していきます。したがって碧巖集のような公案や「明々百草頭」のような禅語を読んで理解しようとしてもあまり意味がありません。これは「冷暖自知」すべきものです。冷暖自知とは、たとえば水に触れれば水の冷たさは一目瞭然ですが、水に触れることなしに水の冷たさを説明しても本当はどんな感じなのか一向に分からない。つまり自ら体験して知るべしという意味です。
しかしこんな説明では肩すかしだと思われるでしょうから、一応「明々百草頭」(禅語)の意味をご説明します。これは「何かがあらゆる草木の一つ一つにも明々白々に現れている。」という意味です。問題はその「何か」とは何であるかです。それは「悟りそのもの」とでもいえましょうか。 禅の修行が「無分別智」を得るためのものだとすれば、その世界の言葉を「分別智」で捉えることはできません。むしろ修行を通じて、どこまで身に染み付いた「分別」をなくすことができるか、すなわち自我をつぶせるかがテーマだといえましょう。もちろん「無字の公案」などもそうしたテーマのためのものです。また修行は寺院の中だけにあるものではなく、日常生活の中に見出すものです。本来、各人に与えられた人生そのものが禅でいう一則の公案ともいえます。自覚ある者にとっては毎日が真に自由な境地を得るための修行の場であるということです。



戒について・・・
我々衆生は、無明煩悩に狂わされて自己の真の姿を知らず、迷いを迷いとも、苦しみを苦しみとも気付かず、暗い生死輪廻の旅を続けています。 仏は苦しみの海に沈み行く我々を見かねて、浮輪を手渡してくれるのです。我々は自由に泳いでいるつもりですが、無闇に手足を動かしているうちに溺れていきます。しっかり泳げるようになるまで浮輪につかまっていれば、溺れることはありません。 また、別の喩えで言いますと、はじめて自転車に乗るとき、あまり上手にバランスが取れず、ぶつかったり、転倒したりして大変です。そこで初めのうちは補助輪を付けてもらいます。しばらくは補助輪のお世話になりながらも、やがてはそれがなくても大きくバランスを崩すことがなくなって、もう補助輪が地面をすることもなくなります。 仏教では、戒・定・慧の三学と申しますが、孫悟空のように飛び回る我々の心を、まずは、ある範囲から外に出ないようにして心の落ち着き(禅定)を得させて上げようとの慈悲心から仏様が与えてくださったのが「戒」です。心の落ち着き(禅定)が得られれば、やがては自分自身・物事の真の姿を如実に見ることができる智慧の目を得ることができるからです。



親の恩について・・・
「善の極は孝より大なるは無く、悪の極は不孝なり。」(忍辱経)

「地より珍宝を積みて、上、二十八天に至り悉く以って人に施すとも父母に供養するに如かず」(末羅末経)

「慈父悲母長養の恩によりて、一切男女皆安楽なり、慈父の恩高きこと山王の如く、悲母の恩深きこと大海の如し。」(心地観経)

「たとえば人ありて、一つの肩に父を荷い、一つの肩に母をかつぎ、その寿量(いのち)を尽くして暫くも捨つること無く、衣食医薬種々のものを供給するも、なお未だ父母の深恩を報ずることあたわず。」(本事経)

お釈迦さまはさらにまた、第一の孝道として、 「飲食及び、宝は未だよく父母の恩を報ずるに足らず、引導(みちび)きて、正法に向かわしむるをすなわち二親に報ずとなす」(不思議光経)

といわれています。お釈迦様の教えによって信心されてご両親にもすすめられ、真の魂の救済を得ていただくことが最上の親孝行だということです。



大乗非仏説について・・・
近年における仏教界の衰退とともに、仏教を学問研究の対象として扱う傾向が優越的な状況となっています。大乗非仏説というのもその流れの一つです。その影響か、最近は原始仏典に向われる方が多いようです。原始仏典を研究されること自体はとても良いことだと思います。ただ、もし原始仏典のみが仏説であり、大乗は仏説ではないと考えたとすれば、それは我々の仏教理解を浅薄な段階に止めてしまう恐れがあります。 まず、原始仏典も大乗経典もともに仏滅後に編纂されたものであり、釈尊の直筆ではなく、その意味でいえば全て非仏説になり、仏説は存在しないことになってしまいます。これに対し、原始仏典は阿難尊者が全て記憶していたから仏説であるといわれる方もいます。非常に頭の良かった阿難尊者は釈尊在世中には悟りに至ることができず、仏滅後に迦葉尊者に師事して悟られたともいわれており、確かに原始仏典は、事実としてはよく仏説を伝えているはずです。しかし釈尊のご説法を受け止める側の境地の深さによっては、釈尊の内面的悟りの境界を直接的に文字で表現するのに、また違った表現手法が必要となってくるのは当然であると考えられます。要は、事実に忠実に「言行録的」に表現したのか、悟りそのものに肉薄するために比喩等を用いて「戯曲的」に表現したのか、の違いであると思います。なお、仏説であるか否かの判定基準については古来より三法印、四法印によってなされることになっておりますが、それで十分であると思います。 実証学的アプローチによって仏教を研究することはある意味、救いの体系としての生きた仏教を一旦殺したうえで、死物として研究対象にしている感があります。それは我々を科学的精神という救われがたい懐疑主義に陥らせることになりそうです。



無我観から大我へ・・・
菩提心は無常観のことであると申しましたが、仏教である以上その点は最後まで貫かれます。全てのものは無常であり、無我です。当然自分自身も無常であり、無我であり、空なるものです。ここまでのところをじっくり修行によって体得していくわけです。禅宗で「無字の公案」などによってやっているのはそれですが、そこまで到達するのが非常に大変なので、そこで終点かと考えられがちですが、その先にまだまだあります。つまり単に無我で終わってしまっては途中なのです。一番分かりやすいのが、十牛図です。人牛倶忘までいってもまだ先があるわけです。天台教学的には空観から、仮観に進み、中道実相観に至ります。ここに至ってようやく「大我」といわれるような悟りと慈悲の境地に立って衆生を救済するといった境界となります。弟子の道としての小乗仏教では「阿羅漢」を最高位とするのは衆生の救済というよりむしろ自己の救済までをゴールと考えたためです。



般若理趣経について・・・
この経典はご存知のとおり、いわゆる密教経典の部類に入るものですが、こうした経典は今でこそ誰の目にも触れることができるようになりましたが、古来、無闇に紐解いてはならないとされてきたものです。それこそ「秘密教」なのです。もし、無常観を完全に体得したようなゆるぎない境地に到達していない段階で、そうしたすべてのタブーを取り払う方向に向って自己のエネルギーを解放した場合、精神が空中分解してしまう危険性があります。やはり、我々としては、何かに魅かれるといった状態を克服して、それに煩わされなくなるまでは、地道に無常観・空観を基本に自己に向き合っていく方向で修行していくしかないと思います。



法華経とは・・・
「法華経」とは略した呼び名で、正式には「妙法蓮華経」といい二十八品(ぽん)から成り立っています。釈尊は成道後、四十年余り色々なお経を説かれましたが、法華経を説かれる直前に無量義経で次のように宣言されました。 「悟りをひらいた仏陀として仏眼で一切の諸法をみると一言では言うことはできない。なぜかというと、人々の性質・欲望はそれぞれ不同である。性質・欲望が不同だから色々に方便をもって説き導いた。それゆえ四十余年いまだ真実を説いていない。」 さらに法華経において「世尊は法久しくして後、かならずまさに真実を説くべし。」「正直に方便をすてて、ただ無上道を説く。」「わが説くところの諸経、しかもこの経において法華最も第一なり。」………等、つまり法華経は釈尊の悟りそのものであり、そこには最高の真理が説かれているわけです。 中でも如来壽量品第十六に、釈尊の壽命は始まりも無い久遠の昔より未来永劫まで無量であり、今も常に滅せず我々衆生を仏道に入らしめ、仏に成らしめんと大慈大悲で教え導いてくださっているということが説かれています。 そのことを心から一念でも信じるとその功徳ははかることができないともあります。悟りを開くために永い間にわたり布施などの修行を積んだ功徳も、釈尊の寿命が無量であることを聞いて一念も信ずる功徳に比べるなら、百千万億分の一にも及ばず、またこの法華経を信じ、読み、そらんじ、解説し、書写する功徳は眼・耳・鼻・舌・身・意(心)が『六根清浄』になるとあります。他にもいろいろな功徳が説かれています。
法華経薬草喩品に
「一味の雨を以って人華を潤し各々実を成ずることを得せしむ」 と説かれていますが、天から雨が降ればどんな木でも草でも潤うように、お釈迦様のお悟りから一切の仏法は出たのです。 木や草にも大きい木とか小さい草とかがあって、たくさん雨をうけたり、少ししか受けなかったりするのは、それは草木の方についていうことであり、仏様の雨の方に於いては平等にして一切差別なく与えれたものであります。 その意味を悟られれば一切経はみな法華経によってそれぞれの意味を与えられ、統一されるものなのです。それはあたかも、すべての川が大海に流れ込むようなものです。 このように釈尊の教えは法華経によって統一されます。 そうした眼で原始仏典やその他の大乗仏典を読んでいかれれば、すべてが一つの悟りに導かれるためのものであったことが悟られるはずです。
法華経については道元禅師も遷化される庵を「妙法蓮華経庵」と名付けられましたし、ご著書の「正法眼蔵」は法華経の解説書です。臨済宗中興の白隠禅師も法華経によって大悟されました。また、良寛様もいつも無一物の庵でも法華経は常に読まれて法華経に関する詩を多数遺されています。
有名な行基菩薩も中国から鑑真和尚が来日されたときに、船までお出迎えされ、
「霊山の釈迦のみもとに誓いてし真如つきせじあいみつるかな」
と歌われています。この意味は、あなた様とわたくしは昔釈尊ご在世の時に、霊山会上において法華経のご説法を一緒に聴聞し、未来永劫お互いに仏法のために働きましょうと誓いあいましたが、その因縁が尽きないで今日ここにお会いできて、まことに嬉しいとのことです。非常に感動的なエピソードです。



禅宗でも法華経は読みますが、日蓮系では御題目と祖師のみが強烈に前に出てお釈迦様さえかすんでしまっているようですが?・・・
日蓮聖人は一切経を読まれて、当時の人々がお釈迦様 をないがしろにして、この娑婆世界に縁のない阿弥陀佛を拝んだり、 大日如来を拝んだりしていたのを、教主釈尊と一切経の中心である法 華経にむしろ戻そうとされました。

「教主釈尊は娑婆世界の衆生には主・師・親の三徳を備えて大恩の仏 にておわす。」
「釈迦佛は我等が為には主也、師也、親也。一人してすくい護ると 説き給へり。」

と繰り返しお釈迦様を敬われたお言葉が御遺文にでています。 日蓮聖人の仰ることに随えばお釈迦様中心になるはずです。もし日蓮 聖人だけしか敬ってないとすると間違っているということになりま す。でも身近に教えてくれるお祖師様を敬うのはどの宗派にも見られ る現象のようです。
お釈迦様は「法に依って人に依らざれ」と言われました。
「わたしの肉体を見る者がわたしを見るのではなく、わたしの教えを 知る者こそわたしを見る。わたしの亡き後は、わたしの説き遺した法 がおまえたちの師である。この法を保ち続けてわたしに仕えるように するがよい。」
「わたしの亡き後は、わたしの説き遺した法がおまえたちの師であ る」の通り、お題目は妙法蓮華経=法華経に帰依しているのです。つ まり、法を表にし、佛宝・法宝・僧宝の三宝を一体として、信仰の中 心にしています。
観音様は身近で救って下さる感じがしてとても有り難いのですが、体 系的に見ると、久遠実成の釈迦牟尼佛のお弟子さんですので、久遠実成の釈迦牟尼佛を中心にしていると、全ての有り難い菩薩様も統一 的に称名していることになります。観音経(法華経第25品)の長行 にありますが、無尽意菩薩が観音菩薩にプレゼントした首飾りを二つ に分けてお釈迦様と多宝佛塔に差し上げられたことに大きな意味があ ります。
道元禅師のお言葉にも、修証義の一番最後の第三十一節に、
「いわゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏これ即心是仏なり。 過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏となるなり。 これ即心是仏なり。即心是仏というは誰というぞと審細に参究すべ し。正に仏恩を報ずるにてあらん。」
とあります。
そこで何故寿量品が中心で大切かということですが、釈尊の久遠実成 (始まりもない遠い昔からのお悟り)ということ、つまり、本覚(始ま りもない最初から覚っていた)であり、本佛(始まりもない昔よ り仏であった)であることが明かされているからです。
そしてなぜ有り難いかですが、

「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身(毎に自らこの念 を為す。何を以ってか衆生をして無上道に入り速やかに仏身を成就す ることを得せしめんと。)」(法華経)

と三世に亘り私達を大慈大悲で導いて下さっているからです。



法華経の中心について・・・
法華経の中心については前半の十四品(迹門)は方便品第二であり、後半の十四品(本門)は如来寿量品第十六であることはほぼ異論のないところです。寶塔品が中心という考え方はあまり聞きませんが、近年の文献学などの影響でそのような説ができているのでしょうか。法華経全体としてはある程度一環したストーリー性があり、その展開を素直に読まれるのが一番だと思います。歴史学や文献学の研究成果の目で研究してみても何ら宗教的意義は見出されず、あまり意味がないからです。もしそうした研究によって素晴らしく悟りを得て救われた人が大勢おられるというのでしたら、その考え方に賛同していくべきでしょう。しかし仏教の歴史上そうした考えによって自己を、また人々を導かれた方はおられないようです。 釈尊は人々の常見を打ち砕くために、無常という真理を説かれました。そして、その無常を悟った心は無常のままに永遠性を帯びるのです。それこそが我々の真の面目なのです。そうしたことが表現されている点に法華経の素晴らしさがあると思います。如来寿量品には仏陀の永遠性が説かれています。



法華経妙音菩薩品の現一切色身とは・・・
現一切色身というのは色々な身を現すということで、「色身」とは容姿のことです。 現一切色身三昧に住して様々な相手に合わせて、ある時は優しくしたり、またある時は厳しくしたりと、色々な容姿を現して、その時その時に適切な教えを与えて衆生を法華経の悟りまで導くことの大切さが説かれています。


坐禅の要諦・・・
道元禅師の言われる、只管打坐に徹しられてはいかがでしょうか。「普勧坐禅儀」に道元禅師が坐禅の要諦を述べられています。その中で、
「不思量底いかんが思量せん。非思量、これすなわち坐禅の要術なり。」
とある部分が特に重要です。この「非思量」に参じてみてください。


忙しくて坐禅できませんが・・・
道元禅師の
「普勧坐禅儀」の中に、「あに坐臥に拘わらんや」とありますが、坐禅のときだけでなく、一切の行住坐臥のところ、日常生活の一切が修行となります。種々雑多のことを妄想せずに寝る時はタダ寝る。仕事でも勉強でも一切を忘れて没頭している時、その時が本当の仕事であり、勉強です。行住坐臥一切が坐禅三昧になることが理想です。 しかし、そうした自己の身心を整えることのきっかけをつかむ為には坐禅が最適です。余裕のある方は日に三分でも五分でもよいですから毎日続けられることがよいでしょう。


筏の譬え(いかだのたとえ)について・・・
川を渡り終えれば筏をかついで歩くことは無意味です。法華経の化城喩品にありますように、仏の教えに導かれて素晴らしい境地(化城)に到達しても、それがまだ途中であればそこに執着せず、まだ先に進まなければなりません。 もし大悟したと思っても、「われ覚れり」と何か一物でも掴み執するものがあれば、それは法執という病となって振り出しに戻ってしまいます。 それゆえ、「法(真理・悟り)を捨てる」というのは、十牛図でいえば、「人牛倶忘」、つまり「悟りを求める人」も「悟り自体」もすっかり無くなったような、さっぱりした境界にまで修行を練り上げるべきことをいうのでしょう。 そして最終の到達点の境地とは・・・捨てる捨られるの沙汰のない世界ではないでしょうか。



自己を見つめることについて・・・
仰るとおり、自我をむき出しにして恥じない、無慙、無愧といったような状態にあるより、自己を振り返り、自己の行いや心遣いが、自分さえよければといった我が儘なことになっていないかと見つめ反省しそれを改められる柔和な心のほうが仏の国に近いでしょう。 ただ、いつまでもそのままでは、見つめる自己と見つめられる自己とが存在し、見つめる側の自己が作り上げた自己のあるべき理想の姿と、それと一致できない醜く惨めな自己とが葛藤し、それが煮詰まって激しく苦悶するような場合もあるかと思います。しかし釈尊の教えを信じ、坐禅等の仏道修行をするならば、やがて、見る自己(主観)と見られる自己(客観)といった二元対立がなくなって一枚(打成一片、心境一如、境智冥合)となる時が訪れます。まずはその一枚の世界に入られることです。
般若心経に「五蘊皆空 度一切苦厄」とありますが、「五蘊」とは「色、受、想、行、識」であり、それはこの世の全てのものです。それは初めから主観も客観も線引きなく「五蘊」なのです。そして、その「五蘊」は空なるものと達観すれば一切の苦厄から救われるのです。 また、「心」を見極めようとか知ろうとするのではありません。「心不可得」だからです。我々の心は本来無自性の空なるものであり、つかめるものはどこにもないのです。そこを達観されるときに初めて心は苦を解脱し自在となって自受法楽といった境に至るのです。



懺悔の大切さ・・・
大集経というお経に、

『百年の垢衣も一日において洗いて、洗浄ならしむべきがごとし。是の如く百千劫の中に集むるところの諸々の不善の業も仏法の力をもっての故に善く従いて思惟せば、一日一時に於いてことごとくよく消滅すべし。』

とあります。
この意味は、たとえ百年の間、垢をためて真っ黒になっている着物でも、洗い清めれば、一日一時で美しくなるように、人の行いも、長い間積もり重なった悪い行いでも、仏法を信じ、生かされていることへの感謝の心を起こせば、その瞬間に永い間の罪をも償うことができるということです。
以下に、懺悔に関して他のお経からも抜粋しておきます。

『前心悪を作ること雲が日を覆うが如く。後心善を起すこと、たいまつの闇を消すが如し。』(未曾有経)

『悪ありて非を知り、過ちを改めて善を得ば、罪、日に消滅して、後、必ず道を得るなり。』(四十二章経)

懺悔文をご紹介致します。
『我、昔つくるところの諸々の悪業は、みな無始の貪・瞋・痴による身口意(行い・言葉・心遣い)より生ずる所の罪。一切われ今皆懺悔す。』(華厳経)
唱える時は次のように唱えてください。
『我昔所造諸惡業 (がしゃくしょぞうしょあくごう)・皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)・從身口意之所生(じゅうしんくいししょうしょう) ・一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいざんげ)』

『一切の業障海は皆、妄想より生ず。もし懺悔せんと欲せば、端座して実相を念え。衆罪は霜露の如く慧日よく消除す。』(観普賢経)

これらの懺悔文を唱えて至心に懺悔し、感謝の生活をするならば悪業もすっかり消え、無垢な赤子のように真っ白な心で一から出直すことができるのです。

  

神や仏の存在を信じておらず、生まれてこのかた全くの無宗教なのですが、 お坊さんのお話はとても為になって大好きです。・・・
法話を聞かれたりすることがお好きとのこと。仏教にとてもご縁がおありだと存じます。 ところで、仏教はキリスト教等の一神教とは違い、自己の外にある他者としての神を信じることを強要する宗教ではありません。人は自分の心を見つめることはできますよね。その心が瞋りに燃える阿修羅にもなれば、己を捨てて他者を救う菩薩にもなります。そのような意味で仏の存在を認められればよいのです。ですから、厳密には仏教では信仰とは言わず、信心という言葉を使います。 また、魂の存在が信じられないというのは、死後の魂という意味だと思いますが、今生きている自分自身の魂、周りの人の魂が無いという人はいないように、我々は日頃、魂の存在を漠然とでも、むしろ認めつつ生きているようです。ただ、仏教ではその魂の存在の仕方が原因と結果の連鎖によってできただけの本来は無我であり空なるものと説きます。死後の世界のあるなしを問題にするのではなく、今時点での心のありかたを問うのが仏教なのです。 このように無我であり空であると悟っていくのが仏教ですので、法話がお好きとおっしゃられる素直な貴方が、思い悩まれることなく、これからもお釈迦様の教えにふれられ、益々ご精進されることを念願致しております。 








四弘誓願文

◆衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
◆煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)
◆法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)
◆仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)






食前のお経

五観の偈(ごかんのげ)
●一つには巧の多少を計り彼の来処を量る(ひとつにはこうのたしょうをはかりかのらいしょをはかる)
●二つには己が徳行の全欠をはかって供に応ず(ふたつにはおのれがとくぎょうのぜんけつをはかってくにおうず)
●三つには心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす(みつにはしんをふせぎとがをはなるることはとんとうをしゅうとす)
●四つには正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり(よつにはまさにりょうやくをこととするはぎょうごをりょうぜんがためなり)
●五つには成道の為の故に今此の食を受く(いつつにはじょうどうのためのゆえにいまこのじきをうく)


【意味】
●一つには、今、目前にある食事が出来てくるまでに、どれ程の人々の手間を労したことか、その食材がいかなる経路をたどってここまで辿り着いたか、また、食材となった他の命の犠牲の上に自己の命が保たれていることにも思いを馳せ、感謝して頂きます。
●二つには、そうした有り難い供養である食事を受けるに際し、それにふさわしい正しい行いをしていただろうかと自己を反省して頂きます。
●三つには、心のおもむくままの放縦・我が儘に陥ることを防ぎ、罪過を離れるためには、貪り、怒り、愚かをなくすことがその根本であることを思い、食を貪ることのないよう心して頂きます。
●四つには、食事というものは、あくまでも身体を維持し痩せて衰弱するのを防ぐための、謂わば「良薬」であると心得て頂きます。
●五つには自他共に人生の最大目的たる無上道(人格の絶対完成)を成ぜんが為に、この食を頂くことを観念し、感謝して頂きます。



三匙の偈(さんぴのげ)
◆一口為断一切悪(いっくいだんいっさいあく)・・・すべての悪を除かんが為に
◆二口為修一切善(にくいっしゅいっさいぜん)・・・すべての善を行わんが為に
◆三口為度諸衆生(さんくいどしょしゅじょう)・・・・すべての人生を善化せんが為に
◆皆共成佛道(かいぐじょうぶつどう)・・・・・・・・・・皆共に無上道を成ぜんが為に














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